江戸の問屋衆の主だったものは、大阪や京都、その他の西国筋と取引し、なかでも大阪との取引は大阪問屋の強い集荷力と江戸問屋の売捌力が呼応して、互いに商売を盛んにしていた。
大阪からの荷は「下り荷」と呼ばれ、主に船便を利用して江戸へ送られてくる。
交易が盛んになると、海運の円滑化は問屋にとって重要な意味をもつようになった。
海運は河村瑞軒によって、まず東回り航路(寛文十一年・一六七一)が開拓され、続いて西回り航路(寛文十二年・一六七二)が開拓された状態で、この新航路は従来よりはいくらか整備されたものの、それは要所要所の岬に烽火をあげて船を誘導する番所を設けたり、寄港地を定めて航海が安全に行われるようにした程度であり、その安全性は決して高いものではなかった。
大阪から江戸への航路には紀州沖や遠州灘の難所があり、伊豆から浦賀水道を江戸へ向かうにも、風向きや波の具合に細心の注意を払わなければならなかった。
それだけに海難も度重なり、船の難破や積荷の水漏れ事故も相次いでいた。
こうした海難による荷の損害はその都度、荷主の損害となり、下りの荷を扱う江戸の問屋がしばしば負担することとなった。
そのうえ、海難の責任の所在や事故の発生原因も不明確のまま事故が処理され、その積荷も荷主の知らぬ間に処分されてしまうなど、荷主としては我慢のできないことが続出していた。
このため、たまりかねた問屋の一人である江戸通町仲間の大坂屋伊兵衛の口ききで、江戸の諸問屋は組合をつくり、十組問屋が結成されたのである。
大阪問屋と江戸問屋との取引は船便で行われ、江戸への荷は大阪港から積みだされたが、この際、商品が船積みされると同時に、その荷の所有権は注文主に移るというならわしで、一方、大阪の問屋が江戸へ荷を送り込み売りさばく場合は、江戸の問屋と取引が成立するまで、商品の所有権は大阪の問屋にあった。
取引の実態は江戸の注文荷が多かったので、海難の損を負担する率は江戸問屋の方が多かった。
それだけに実態は切実で、実行力のある問屋連合の結成が求められたのである。
十組問屋の仕組みは同業仲間と組んだ組と、地域の商売人(問屋)仲間で組んだ組とがあり、こうしてできた組が集まって組の連合体をつくり、十組問屋(十組仲間)を結成したもので、組みに参加した問屋は十組問屋とも、十組仲間とも呼ばれた。
十組問屋の運用に当っては組ごとに行事(行司-世話人)が置かれ、二ヶ月交替で十組問屋を代表する大行事を回りもちして、海難に関する廻船問屋との交渉を始め、損害の分散負担の世話など、船便の仕事や紛争防止の仕事をした。
十組問屋の活動はきわめて活発であった。そのころ、大手問屋は資力が十分にあり、気力の充実した人材が揃っていた。
その一つのあらわれは自己資金で菱垣廻船を建造し、それを運行させて十組問屋の利益を守ったのである。
この菱垣廻船には船足(喫水)や船具に十組問屋の極印を捺した。
船が港に入ってくると船を検査し、海難事故があれば現地へ乗り込んでいって細かく調査するなど、活動はめざましいものがあった。
海の荒くれ男を相手にしての仕事であり、海難が起こる土地の多くは僻地である。
江戸で商いをしている商人が、よくぞがんばったという感が強い。それだけ問屋仲間には気迫がみなぎっていたといえよう。
従来、菱垣廻船を把握していて強い力をもち、仕入問屋たちの言い分を受け入れなかった廻船問屋たちも、十組問屋の力量をしだいに認めざるを得なくなり、むしろ、十組問屋に依存して商権を維持する態度へと変わっていった。
十組問屋の活動と推移については、別項にも記すが、江戸商人の力量と見識を示したのが十組問屋であり、十組問屋を除いては江戸商業は語ることができないとさえいえる。