小津清左衛門が生まれ育った松阪の町は蒲生氏郷の城下町として営まれ、江戸時代に紀州藩徳川家の領地となってからは、奉行所がおかれて栄えてきた。
氏郷以来の政策は松阪を商業の中心地として栄えさせることにあって、有力な商人を松阪に集めるとともに、良港に恵まれた地の利を生かして、貿易が奨励され、鎖国時代になると船便による国内交易に力が注がれてきた。
それに松阪はの周辺は産物が多く、商業が奨励されていたので、世の中が安定するにつれて、商売を志す人たちがぞくぞくと各地へ進出していった。
松阪商人と呼ばれる人たちである。
とくに江戸への進出が盛んで、江戸の町まちには伊勢屋の看板が目立ち、また、商売の手堅さと独特な店経営とが注目されて、松阪やその周辺の出身者が営む問屋は「伊勢店(いせだな)」と呼ばれた。
清左衛門長弘は創業当時はもちろん江戸にあって商売に励んでいたが、商売が繁盛して店の経営が大丈夫と見定められるころになると、住居を郷里松阪にもって、江戸店の経営を支配人に委ね、松阪から店の経営をみるという形態をとっている。
これには松阪商に共通した江戸店経営法であった。
松阪は京、大阪に近く、商いの便がよく、情報も早かった。
それに江戸店は身元のはっきりした松阪出身者やその近辺の者で固めているので、器量のある奉公人に店を委ねての経営が可能であったともいえるのである。
松阪には小津姓が多い。そのいわれについては、本居宣長が『家のむかし物語』のなかで先祖や縁者のことを述べつつ、小津姓のゆかりを記している。
松阪の近郊の小津村から油屋源右衛門という人が松阪に移り住んで、小津を名乗ってから、小津を家名とする人が多く出たといわれている。
小津姓の人には商売を志す人が多く、江戸大伝馬町にも小津を名乗る店が多く、江戸店を経営して分限者となった人も少なくない。
清左衛門長弘が店をもったとき、大金を融通してくれた小津三郎右衛門(三四右衛門ともいう、本居宣長の曾祖父に当る)もその一人で、本居宣長が「江戸に店を創置(はじめおき)て一家を起し」「かの地大伝馬町一丁目に、木綿店三店を創置玉(はじめおきたま)ふ」と記しているその人である。
本居宣長の家系は宣長の五代前までは本居姓であって、四代前から小津姓となった。
そうしたわけで宣長も家業の商売に従事していた青年時代は小津姓だったが、商売から転向して医者になるため京都へ修学にいったときに、先祖の旧姓「本居」と改めたのである。
小津姓の人たちは数も多く、栄える家も多かったので、松阪では小津党、小津五十党とも呼ばれ重きをなしていた。
清左衛門の家も栄え、また地元へもよく尽くしたので、周囲からも重んぜられて、長弘の次の代の長生のとき、清左衛門は小津党の長老に推されている。
小津清左衛門の名は個人小津清左衛門の場合と、店の名として小津清左衛門が用いられている場合がある。
いずれとも区別がつきかねるときもあり、松坂の本家にも江戸店にも手代がいて清左衛門の名で代行していたから、あたかも小津清左衛門が松阪にもいて、江戸にもいるという形となったりする。
そのうえ代々襲名であるから、時代を超えて使われている。
また、ときには伊勢屋清左衛門を名乗り、世間からもそう呼ばれたりもした。
清左衛門が栄え、小津党第一の富商となり、松阪だけでなく、江戸の富商と唱えられるようになってからは、松阪商人の小津、大伝馬町の小津といえば清左衛門のことを指すのであった。
清左衛門の屋敷は長弘の父が松阪に移り住んでから、長弘の代までは松阪の西町にあったが、貞享三年(一六八六)に伊勢街道に面した本町に移っている。
長弘が弟の長生に家督を譲った年である。
本町の屋敷は大橋の傍らにあって、それ以来、清左衛門は代々ここに住んだ。