小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

022・個人経営から法人へ
022・合資会社小津商店の設立
022・本店最後の決算書
023・伊勢店に新しい風
023・戦時統制経済と小津
023・軍需ふえる
024・狭められる経済活動
024・綿を営業品目からはずす
024・小津商事株式会社、株式会社鱗商店設立
024・企業整備−さらに統制強化へ
025・紙糸や代用ガラス等を扱う
025・風船爆弾と小津
025・満州と小津
第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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個人経営から法人へ
 個人経営から法人組織へ。それは近代経営としていつかはとるべき道であったが、小津の場合はあわただしく実行に移された。 その遠因は関東大震災による東京三店の全焼であって、さらに松坂の小津本家が直轄していた小津細糸紡績所の経営が不況の波を受け、それに貿易進出を意図して設立した小津武林紀業株式会社の不振が、大きな財務負担を小津本家に与えていた。 また、小津本家が創立し松阪の地元銀行として堅実経営の信頼が高かった小津銀行も、全国の金融界をゆさぶった昭和二年(一九二七)の金融恐慌の外に立つことを得ず、当局の勧奨もあり、四日市銀行に合併させている。 直接的な引き金は小津武林紀業株式会社の経営悪化による財務負担であるが、こうした環境のなかでの緊急対策として、小津清左衛門の東京三店の法人組織化が決定した。
合資会社小津商店の設立
 小津本家と東京三店に大きな変革がきたのは昭和三年(一九二八)末であった。 話は急速にもち上がり、本店もあわただしい雰囲気に包まれ、本店をあずかる隠居さん(別家・目代)たちの松阪往復が頻繁に起こり、支配人や目代たちが深夜に至るまで仕事を続ける姿が見られた。 そして昭和四年(一九二九)一月五日付で合資会社小津商店を設立、ただちに全店員に発表した。 承応二年(一六五三)に小津清左衛門長弘が江戸大伝馬町に紙商を創業して以来の大きな変革が行われたのであった。

 合資会社設立は東京三店が別々に法人組織をもつということで、情誼や取引上の提携は変わらなかったが、企業体としてはまったく別個の発足であった。 松阪本家の決断でもあり、東京三店幹部と緊密な連絡協議のうえでの実施であった。当主は十四代小津清左衛門長謹であった。


合資会社小津商店

 本店----合資会社小津商店   資本金 十万円
 向店----合資会社大橋商店   資本金 十万円
 木綿店--合資会社小津木綿店  資本金 五万円

 本店の名跡をそのまま継承して法人格として新発足して小津商店は、一日も休むことなく営業を続け、伝統の紙商小津を守った。 合資会社小津商店は本店をあずかっていた人たちが中心になって責任社員となったので、実務上の変化はほとんどなく円滑に業務が続けられた。

 責任社員は十名で、代表社員に佐野助三郎(別家)、無限責任社員に河合重太郎(別家)、小黒久吉(別家)、西山勝次郎(別家)、別府健三郎(現業)、有限責任社員に米沢千吉(別家)、奥山賢蔵(現業)、山岡兄郎(現業)、伊藤貞一(現業)、坂野碩太郎がなった。 出資金は米沢千吉の二万円を最高に、年次の若い伊藤貞一、坂野碩太郎が二千円とそれぞれの立場に応じた金額を分担出資している。 経理には本家から若い人を移して充実させた。このときの転換は疾風の如く行われた。 五日に組織変更を店員に発表すると同時に、「半日で附立(つけたて)(棚卸し)をせよ」と指示し、五日間で決算を完了して新組織を発足させている。

 この間、店はいつものように商売を続けていた。 伊勢店のしきたりどおりに店員たちは朝定められた時間に起床し、いつもと同じように受け持ちの仕事を続けながら、附立の仕事をこなした。伊勢店の実力はあざやかだった。 店のたたずまいで変化したのは、昭和四年(一九二九)一月十一日「合資会社小津商店」と墨痕あざやかに書かれた木の看板が掲げられたことであった。

本店最後の決算書
 昭和四年(一九二九)一月合資会社小津商店として発足した当時の店況はどうだたのであろう。 個人経営から法人組織に変更したのであるが、商売上の変化はなく、従来どおり取引が進められていた。 昭和三年(一九二八)八月一日から合資会社に移るまでの業態を当時の決算書で見てみよう。 この決算書は合資会社小津商店へ継承させるために、期末を待たず一月五日で決算したもので、半期に一ヵ月足りない五ヶ月分の帳尻ということになる。

 紙の総売上は九十五万五千余円(内、現金売り七十二万七千余円、懸売り二十二万七千余円)で、当期有物(在庫)二十二万八千余円であった。 仕入れでは和紙仕入れが九十五万余円(仲間仕入れを含む)で、このほかに紙取次七千余円、洋紙二万六千余円、水引四百余円がある。 買付先は高知が七十八万余円と約八割を占めて圧倒的に高く、それに次いで大阪の七万九千余円、武州(埼玉)の二万余円、駿河(静岡)の一万一千余円、野州(栃木)の七千四百余円、越前(福井)の三千八百余円が続いていて、地方(じかた)からの仕入れが二万九千余円となっている。 洋紙の仕入れは二万六千余円で和紙の二・七%程度である。

 綿の売上は五十八万余円ですべて現金売りであった。 仕入れ横浜の二十一万余円、天津上海の十七万八千余円、大阪の四万六千余円、地方(じかた)の十二万五千余円のほかに、綿取次二千七百余円、真綿仕入れ千百余円となっている。

 紙の在方貸(ざいかたかし)が二十六万余円とあるのも注目される。 荷主方未払金とは別のもので生産地への金融措置である。 震災顛補積立金四万一千円とあるのや、新建築費として四万三千余円が計上されているのは、震災処理のきびしさを語るものである。

 この期の売買利益は紙方約三万七百円、綿方は約一万七百円で、税金等を差引いた純益金は双方合算で八千四百円余、これに前期繰越金八百円余を加えると、合計九千三百余円となった。 この純益金には、「小津清左衛門本店ヲ合資会社小津商店へ譲渡ニ付上記金額ヲ解散諸手当ニ支出ス」と付記されている。 この期(五ヵ月分)の給金については「五千八百八拾四円也」と記されている。

 この決算書は本店から小津本家へ提出されたもので、貸借対照表、損益計算書からなり、それに諸項目の明細が書き込まれた和綴の大福帳であって、末尾には、

     右之通り御座候   以上
      昭和四年一月
                     健三郎
                     長兵衛
                     助三郎
     旦那様

と、本店責任者の署名があって、宛名は一きわ大きく肉太に「旦那様」を記されている。 和綴の分厚い帳面に記されている文字には、本店最後の帳面をしめくくり、「旦那様」と書き終えたときの心情がにじんでいるかにさえみえる。

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