昭和四年(一九二九)一月合資会社小津商店として発足した当時の店況はどうだたのであろう。
個人経営から法人組織に変更したのであるが、商売上の変化はなく、従来どおり取引が進められていた。
昭和三年(一九二八)八月一日から合資会社に移るまでの業態を当時の決算書で見てみよう。
この決算書は合資会社小津商店へ継承させるために、期末を待たず一月五日で決算したもので、半期に一ヵ月足りない五ヶ月分の帳尻ということになる。
紙の総売上は九十五万五千余円(内、現金売り七十二万七千余円、懸売り二十二万七千余円)で、当期有物(在庫)二十二万八千余円であった。
仕入れでは和紙仕入れが九十五万余円(仲間仕入れを含む)で、このほかに紙取次七千余円、洋紙二万六千余円、水引四百余円がある。
買付先は高知が七十八万余円と約八割を占めて圧倒的に高く、それに次いで大阪の七万九千余円、武州(埼玉)の二万余円、駿河(静岡)の一万一千余円、野州(栃木)の七千四百余円、越前(福井)の三千八百余円が続いていて、地方(じかた)からの仕入れが二万九千余円となっている。
洋紙の仕入れは二万六千余円で和紙の二・七%程度である。
綿の売上は五十八万余円ですべて現金売りであった。
仕入れ横浜の二十一万余円、天津上海の十七万八千余円、大阪の四万六千余円、地方(じかた)の十二万五千余円のほかに、綿取次二千七百余円、真綿仕入れ千百余円となっている。
紙の在方貸(ざいかたかし)が二十六万余円とあるのも注目される。
荷主方未払金とは別のもので生産地への金融措置である。
震災顛補積立金四万一千円とあるのや、新建築費として四万三千余円が計上されているのは、震災処理のきびしさを語るものである。
この期の売買利益は紙方約三万七百円、綿方は約一万七百円で、税金等を差引いた純益金は双方合算で八千四百円余、これに前期繰越金八百円余を加えると、合計九千三百余円となった。
この純益金には、「小津清左衛門本店ヲ合資会社小津商店へ譲渡ニ付上記金額ヲ解散諸手当ニ支出ス」と付記されている。
この期(五ヵ月分)の給金については「五千八百八拾四円也」と記されている。
この決算書は本店から小津本家へ提出されたもので、貸借対照表、損益計算書からなり、それに諸項目の明細が書き込まれた和綴の大福帳であって、末尾には、
右之通り御座候 以上
昭和四年一月
健三郎
長兵衛
助三郎
旦那様
と、本店責任者の署名があって、宛名は一きわ大きく肉太に「旦那様」を記されている。
和綴の分厚い帳面に記されている文字には、本店最後の帳面をしめくくり、「旦那様」と書き終えたときの心情がにじんでいるかにさえみえる。