小津清左衛門長弘の念願であり、次の代の長生に受け継がれたものに、大伝馬町での木綿店進出があった。
長弘が初めて大伝馬町に店をもってから四十五年経った元禄十一年(一六九八)に、大伝馬町で木綿店を創業した。
このころには清左衛門の店は大伝馬町の有力紙問屋になっていたが、清左衛門の店の東隣の木綿店を同郷の小津屋源兵衛(結城屋源兵衛ともいう)から百五十両で譲ってもよいという話がもち出され、これを買った。
株仲間の制度で商売が縛られていた時代であり、株の持ち主でないと木綿店に進出することはできなかった。
都合よく話がまとまり、店を譲り受けることとなったのである。
長弘はそのときは七十八歳ですでに隠居して玄久を名乗っていたから、この譲り受けは当主の長生の指図で行われた。
買い取った店は表口一丈五寸で二間に満たない店舗だった。
紙や繰綿を商っている本店からすれば半分にも足りない店であったが、そのころの木綿店の規模はそれが普通で、この店の場合でも十間間口の家を六軒で間仕切りして、店を張っていたのであった。
このときから約二十年後の享保五年(一七二〇)の間仕切図によって当時の様子がわかる。
すなわち小津の本店が五間七尺でいちばん大きく、本店の筋向いの又兵衛の店の五間がそれにつぎ、あとは真向かいの五間の家を三間を六兵衛、二間を太兵衛とに分けて店を張っているのがあるだけで、他はほとんどが一丈五寸、一丈、九尺、八尺等に細かく分割され商売をしている。
それが当時の姿であった。
この当時は、大伝馬町一丁目の木綿問屋に大きな変革が起きた後、それがようやく定着しようとしていたときだった。
寛永年間に創業して力量を示していた木綿問屋四軒がしだいにその力を失って、木綿仲間が木綿問屋を名乗ることとなった貞享三年(一六八六)から十年余を経て、新しい問屋七十軒が気負って商売をしていた時代であった。
そういう雰囲気のなかで清左衛門は進出したのであり、木綿店は仲間も多く、気心の知れた松阪商人がすでに活躍していたので、多くの便宜を受けることができた。
また、株仲間というのは幕府に冥加金を納める反面、幕府の庇護も受けていたので恩恵も多く、競合と提携が機能して利を生む商売仲間でもあった。
木綿問屋は松阪商人にとってもっとも得手な商売であるが、商売がうまくいくと心おごる商人もいた。
本居宣長が書いた同族の話のなかで江戸に進出して
「初めは富栄えて・・・(中略)、ほどなく産おとろへて、貧しくなり給ひき」という部分がある。
元禄期の木綿店の出入りでも十九件の移動があったが、この十九件の店舗譲渡のうち小津を名乗る店が二軒あり、買い手の方も清左衛門を含めて小津を名乗る店が二軒あった。
木綿店に進出した商人に松阪出身者がいかに多かったか、売り手も松阪出身、買い手も松阪出身というのは、地縁もあったであろうが、松阪の人たちがいかに木綿店に心を寄せていたかがわかる。
小津清左衛門は新たに入手したこの木綿店を、紙商小津清左衛門店とは別個の店として扱っている。
このように小津清左衛門は江戸大伝馬町に二軒の店をもつこととなった。
このとき、玄久(長弘)の胸中はどうであったろうか。
身はすでに松阪でも有数の分限者であり、隠居して悠々の日々である。
若い日以来精魂こめて働いてきたあの大伝馬町に思いを馳せつつ、江戸店の栄えを喜んでいたことと思われる。