小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

026・新しい時代と小津
026・戦後商売の第一歩
026・商権復活活動を進める
027・ビルの建設
027・紙の博物館へ
027・お竹大日如来のゆかり
027・奥山賢蔵−小津グループの功労者
027・小津グループの形成
028・小津グループ各社の概況
028・株式会社小津商店
028・本栄株式会社
028・小津産業株式会社
028・小津紙商事株式会社
028・株式会社大成洋紙店
028・あとがき
小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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新しい時代と小津
 戦争は終わった。しかし、紙商小津が本来の姿を取り戻し、紙の販売を本格的に再開したのは、終戦から一年余りを経た昭和二十一年(一九四六)十一月の統制解除からであった。 それまでは不本意な日々であった。 終戦直後の小津の体制は合資会社小津商店を柱に、戦時中に設立した小津産業株式会社があった。

 小津商事株式会社は当局の意向もあって、昭和十九年(一九四四)に「小津産業」と商号変更している。 鱗商店は戦時中に日本ハップに譲渡した。後に木村産業となる。

 いよいよ統制が解除されることとなったとき、小津商店はその営業部門を小津産業株式会社に移し、和洋紙の販売を推進する体制がとられた。 「商権が戻ってくる。商売が自由にやれるのだ」と、燃えるような意気込みで新しい体制を固め、商売に臨んだのである。 紙商小津のよみがえりであり、新しい時代に向けての発足でもあった。

 これより先、小津では終戦後ただちに商権復活の運動を率先して開始していた。 戦時中に和紙業界同志とともに結成した「温古会」仲間で、商権復活を決議するなど、広い活動を行っている。

 小津の再会は一からの出発といってよかった。幸い、そこには紙商小津の無形の財産ともいうべき商権があり、得意先の信頼と愛顧が変わることなく存在していてくれた。 そして復員し、あるいは疎開先から復帰してくる社員、それに店を守ってきた責任者たちがいて、多くの制約を受けたものの、しだいに商売を広げていくことができた。

 社会に和紙への理解を求めて起こした活動に「全国和紙振興会」があり、日本書道連盟や日本学生書道連盟を支援し、和紙のよさを知らせる運動を進めていたが、そうした運動の主唱者の一人となり、また辰巳会の結成と活動にも力を尽くした。 こうした活動は紙商小津の和紙への深い思いから出たものであった。

 小津商店と小津産業の活動は年々拡張され、小津グループへと発展していく。それは復興から高度成長へと堅実な道を選んできたといえよう。 いま、小津グループは新しい技術革新も取り入れつつ、発展の途上にあるので、その活動は略述にとどめるが、そこにはいくつかの挿話も生まれている。

戦後商売の第一歩
 終戦というきびしい現実に直面して、まず最初にすべきことは商売を始めることであった。 各目的には統制は廃止されたが、配給制度という名で統制は続けられていた。 国土は荒廃し、生産は激減していたので、商売を始めるにも品物がなかった。 品物さえあれば引っ張りだこで売れていく時代であった。

 終戦の翌月から統制外の品物を扱うべく活動を開始している。 濡れ損の仙貨紙ありと聞けば遠路をいとわず仕入れに向かい、困難な交通事情にもめげず商売に走り、あるいは災害地の特配用の障子紙切符を受け取って配給品を扱い、紙の入手に成功すればノートの加工に出し、終戦によって売れなくなった産報綿や貼り薬「ネッシ」を漉き直すなど、取引の大小にこだわらず、ひたすら商売を積み重ねていった。 こうしたことも従来からの取引先の協力があったからで、日本紙業や日本ハップなどとの提携はとくに密なるものがあった。

商権復活活動を進める
 戦後、多くの経済活動が自由化していくなかで、紙は社会の重要物資であるところから、配給制という形で統制が継続されていた。 そこにはヤミ行為が生まれ、粗悪な仙貨紙がしきりに取引される状態であった。この時期は紙にとって不幸な時代であったといえよう。 なかでも仙貨紙は大きな被害を受けた紙といえる。 本来仙貨紙は、優れた和紙として定評のある紙であったが、この時期には粗悪紙が横行し、とくに統制外の出版用紙として使われたために、仙貨紙の声価は極端に低いものとなってしまった。

 紙は一刻も早く統制から営業を取り戻さなければならない。取引の秩序を確立し、正常な発展を図らなければならない。 これが紙商の悲願であったが、紙の新しい流通秩序を審議する製産配給審議会では、商行為に理解のない意見もあり、元売業者の必要性を無視する論議か出されるなど、容易ならぬ情勢であった。 戦後いちはやく商権復活運動に立ち上がったのは「温古会」であった。 温古会というのは和紙問屋業界の親睦会であるが、業界のどこよりも早く、終戦一ヵ月後の九月二十六日に箱根に戦後第一回の会合をもち、「和紙をわが手に」と商権復活に決起する決議をし、紙商の商権復活運動に立ち上がっている。 温古会の中心になっていたのは河北警ニ氏、平川繁夫氏、奥谷清次郎氏らで、表面には立たなかったが小津の奥山賢蔵が主唱者として参画している。

 既述のとおり昭和十六年(一九四一)、和紙問屋の存立が危ぶまれていたとき、統制の先手を打って日本和紙問屋商業組合の結成に奔走したのは小津商店で、主として奥山賢蔵がその衝に当った。 奥山は業界紙記者として知名の河北警ニ氏を口説いて起用し、小津商店の一階の応接室を提供して組合結成の中心になってもらっている。 同業者からは平川繁夫氏(朝日紙業)、奥谷清次郎氏(奥谷商店)、吉川四郎氏(吉川四郎商店)、川岸義蔵氏(大橋商店)、中村庄八氏(中村庄八商店)といった有力同業者が協力して奔走してくれた。 こうして同業者やメーカーの同調を得て組合は結成されたが、その組合も当局の強権によって解散させられ、統制会社に吸収されるという悲憤の事態に出会ったのであった。 その無念から親睦会の名目でひそかに「必ず紙商の商権復活の日がくる」と信じ、温古会と名づけて結束したのであった。 温古会には小黒久吉、奥山賢蔵が参加し、事務所は小津商店内におかれた。 まる秘の判が押された温古会設立趣意書には、戦時のきびしい時代の文書としてはきわめて大胆に、「戦局の進展如何によりましては再び問屋業者の結束奮起を必要とする時節が到来せぬとも限りません」 「この真の設立趣意は皆さんの胸底深く秘めて置いて頂き度いのであります」の文字が記されている。 和紙を愛し商売を大切にしていた人たちの集まりなればこそできたのであるが、この温古会に事務所を提供していた小津商店も大胆であったといえよう。

 和紙の配給統制が解かれ、商権が復活したのは昭和二十四年(一九四九)六月で、紙の統制解除第一号であった。

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