新政府の商業政策は次々に発令され、新しい商業機構が進められていった。
最初に発令されたのは商法司の設置で、慶応四年(一八六八)四月に会計官のなかに置かれた。
東京ではその年(明治元年)九月に東京の富商の主だった者を商法司知事に任命している。
小津清左衛門は鹿島清兵衛や田中次郎左衛門とともに商法司知事となり、後に加わった三井三郎助や松沢孫八とともにこの役を務めた。
商法司は新しい金融政策や商品流通政策を円滑に実施するのがねらいであった。
新政府の商業政策はその年の五月に布告された『商法大意』にその要点が示されている。
従来の諸問屋はもとより、商売に携わる者は手広く商売をせよ、諸株仲間の増減は勝手でよい、従来の冥加金上納は廃止するというもので、商法局(商法会所)運用の指針でもあった。
そして、十一月には商法会所元締頭取が置かれて、小津清左衛門はその一員に加えられた。
また、商法司に仲間から肝煎(きもいり)二人を選出せよとの指示があり、このときも長谷川次郎兵衛とともに大伝馬町から肝煎に選ばれた。
新政府は商法司と並行して貿易商社を設立し、明治二年三月には通商司を置き、商法司を廃止した。
さらに五月には為替会社の創立が指示され、役員が任命されるなど、あわただしい商業政策が続けられていた。
このときの小津清左衛門の主な役職をまとめると、次のとおりである。
商法会所 元締頭取(明治元年十一月任命)
会計官為替方 元締頭取(明治元年十二月十三日任命)
通商司為替方 頭取(明治二年五月二十四日任命)
東京為替会社 総頭取(明治二年十二月現在)
なお、この当時には民生安定のための開墾事業の推進が官民協力で行われ、開墾会社が設立されたが、ここでも総頭取に任命された。
明治二年七月には貿易商社は東京通商会社と改称され、引き続き総頭取を務めた。
なお、大橋太郎次郎も通商、開墾両社の肝煎となっている。
こうした重要な役に任命されることは、名誉なことであったが、同時に人手と金銭の負担を伴うものであった。
東京貿易会社の場合には身元金として三万両を差し出している。
新政府への協力を求められた富商仲間のうち、ある者は政商の道を選び、ある者は従来の家業を守る方向を選んだ。小津は手堅く後者の道を選んで進んだ。