紙商小津(現在の小津グループ)の歴史は小津清左衛門長弘から始まっている。
清左衛門長弘は幼名を太郎次郎といい、寛永ニ年(一六二五)に伊勢松阪で与次大夫長継の次男として生まれている。
このころの太郎次郎の家の姓は森島といい、父の代から武士を捨てて松坂西町に住んでいた。
この少年は十五歳で親戚の呉服商斎藤小兵衛の江戸店(えどだな)へ勤めるため、江戸へ下っている。
少年太郎次郎にはすでに禀質が光っていたのであろう。
斎藤小兵衛は後継ぎの小次郎が幼少だったので、太郎次郎を目代として起用し、江戸店へ派遣したのであった。
これが清左衛門の初めての江戸とのかかわりあいであるが、彼はこの境遇に満足せず、三年後には父親に呼び戻されるという形式をとって店を辞めて郷里へ帰っている。
寛永十九年のことである。彼は十二月二十日に江戸を立ち郷里へ向かっているが、このときの道連れは二人の武士であった。
斎藤小兵衛の店の得意先である松平隠岐守の家臣が、主命で桑名の領主松平越中守へ挨拶にいくのに同行したもので、連れとともに桑名に着き、そこで元服の式を挙げている。
郷里松阪を目の前にしての元服式には、同行の武士も立ち会って祝福してくれたと思われる。
ここで太郎次郎は清左衛門長弘を名乗ることとなり、一人前になった若者として郷里松阪入りをしている。
清左衛門長弘の門出はそのときからすでに劇的な彩りをもっていた。
松阪で新年を迎えた清左衛門長弘は、その年の三月、ふたたび江戸へ向けて旅立っている。
その胸中には、江戸で店持ちの商人になろうと決めた炎が燃えていたのである。
そのころの松阪の青年のなかには、新しく勃興してゆく都市江戸へ出て商売をし、富を築いて名を成そう、江戸開府以来ぞくぞくと進出していった先輩たちの後に続こうとする気持ちが盛んであった。
長弘もまた今度こそ江戸で成功してみせる、斎藤の店で働いた経験を十分に発揮しようと、期待と希望に燃えていた。
江戸へ出た長弘は、当時、大伝馬町の草創(くさわけ)名主として大きな存在だった佐久間善八の店に奉公した。
善八は大伝場町一帯に大きな拝領地をもち、その一角の目立つ場所に紙商を営んでいたのであって、この有力な紙問屋に勤めることとなったのは、長弘の一生を支配する大きな出会いであったと同時に、紙商小津が生まれる素地ともなったのである。
ここでの長弘は斎藤清左衛門を名乗って勤めた。
前に勤めた斎藤小兵衛の店のゆかりからそう名乗ったのであろうが、郷里松阪で父が森島を姓として、家名を河崎屋と称していたのに対し、江戸で一本立ちしようとする自分への自立の決意の表明だったのかもしれない。
新しい出発であった。
佐久間善八の店は長弘にとって、働き甲斐のある店だった。長弘はここで懸命に働き、主人の信頼を得、同輩や得意先からもたのもしがられる奉公人になっていった。
ここに勤めて九年経ったとき、長弘に新しい幸運がめぐってきた。
佐久間善八の店の隣で商売をしていた紙商井上仁左衛門が「郷里へ引退するので、誰か適当な人に店を譲りたい」といい出したのである。
江戸目抜きの大伝馬町一丁目の角店で、表口三間横側二間あった。
こうした店の譲渡は佐久間善八の承認を必要とし、ほとんどが善八の意向で決まってしまう。
このとき、佐久間善八の店の庭衆たち(販売人)がこぞって、
「井上の店は、長弘にこそ継がせてやりたい」
と主人に申し出てくれた。
この推挙は主人に受け入れられ、長弘はここで念願の江戸店のあるじとなった。
松阪の志ある青年たちがこぞって抱いている夢「江戸の店持ち」が実現したのである。
このときの事情は長弘も語り残しており、親戚に当る国学者本居宣長も書き綴っている。
注目を浴びた出来事だったのである。
実は、この幸運な話がもちあがったとき、長弘は店を買い受ける資金らしい資金はもっていなかった。
店の代金は百三十両だった。九年間働いてきたとはいえ、奉公人生活ではそんな大金はとてももてるものではない。
困惑する長弘に力を貸してくれる人がいた。
同じ松阪の出身で平素から親しく、長弘の父の長継からも「長弘のことをよろしく頼む」と常づね依頼されていた小津三重郎で、彼が奔走してくれて、大伝馬町の有力な木綿問屋として知られている、やはり松阪出身の小津三郎右衛門道休から二百両の融通をとりつけてくれた。
道休も郷里の後輩の独立創業に手をかしてやろうと乗り出してくれたのである。
奔走してくれた三重郎は長弘の弟の孫大夫(後の長生)と妻が姉妹であった。
そうした縁で長弘に大きな支援の手を差し伸べてくれたのである。
周囲の好意に囲まれて、清左衛門長弘は江戸大伝馬町一丁目に店を構えた。
紙商小津清左衛門の創業である。承応二年(1653)八月九日、長弘二十九歳のときであった。