商家には敬神崇仏のしきたりが多い。
松阪は伊勢に近いので、敬神の心はとくに篤く、また、長弘を始め代々の当主の仏への帰依にも深いものがあった。
清左衛門の一日は拍手を打って神棚を拝み、仏前に灯をともして経をあげるとことから始まったものと思われる。
長弘は篤実な人であったから、その性格が清左衛門の家風や店風の礎となって代々に受け継がれ、清左衛門の周囲からは信心の深さや人びとへのいたわりの心の発露をえ伝えるいくつもの話が生まれている。
清左衛門の屋敷には慈源法尼が寛政十二年(一八〇〇)に勧請した萬福院琴平大神、それには伊勢商人のほとんどの店が祀っている稲荷社が勧請されている。
慈源法尼の信心は篤く、養泉寺には慈源法尼が筆写した正方眼蔵が納められており、その筆蹟には法尼の毅然とした性格と信仰の深さがにじんでいる。
養泉寺(曹洞宗の禅寺、松阪中町)への清左衛門家の心入れは深く、長弘が大般若経六百巻を寄進しているのを始めとして、長康の代の享保十六年(一七三一)には地蔵院を寄進、さらに元文四年(一七三九)には崇恩寺を買い求めて修理を加え、養泉寺の末寺として寄進している。
これは現在の長松寺で、昭和二十年(一九四五)の空襲に遭って堂宇を焼失したが、小津家では自家の観音堂を寄進してその復興に協力した。
長松寺の本堂となった堂宇の天井には江戸時代の菱垣船の天井が用いられ、天井の装飾には江戸大伝馬町の屋台の太鼓(諫鼓鶏(かんこどり))が用いられている。
仏像も小津家が秘蔵していたもので、内陣も心細やかに荘厳(しょうごん)されている。
この堂宇建立に当っては長松寺の檀徒の心入れが篤く、小津家はその篤い心に感銘して協力を惜しまなかったという。
小津家では崇仏の志が篤く、このほかに大和の長谷寺、安楽村の安楽寺、永昌寺などへの寄進が記録されているが、それは本家だけの行(ぎょう)ではなく江戸店の人びとも目代、支配人から子供衆まで神仏へのお参りを日常のこととしていた。
清左衛門の屋敷は伊勢街道に面していたから、家の前はつねに伊勢詣での人たちが通行していた。
松阪の町には伊勢まいりの人たちを大切にし、何なりとも施行するしきたりがあったので、主人の篤信も加わり、家族や雇人の間にもやさしい心が行きわたっていた。
清左衛門の家には伊勢まいりの人びとのため、旅の安全を祈って刻んだという小さい仏像がたくさん伝えられているが、城下町松阪特有ののこぎり型の家並と活気ある街道の商家の奥で、静かに刻まれたものと思われる。
このように、小津清左衛門は信心の篤い家として知られていた。
江戸時代後期のことであるが、伊勢へのおかげまいりが爆発的な流行になり、伊勢街道はひたすら伊勢へ向かう人、伊勢から帰る人で混乱が続き、松阪では町をあげておかげまいりの人たちへ支援の手を差し伸べたときがあった。
着のみ着のままで家を飛び出してきた人たちもあり、泊まるところがなければ社寺で夜を明かす人もあり、松阪の人たちの施行はゼニのほか、粥、むすび、わらじ、笠などに及んでいた。
清左衛門の屋敷の傍の大橋にも大勢の人が集まって夜を明かすようになり、このとき清左衛門の家からは連日「むすび施行」が続けられた。
森壺仙の『いせ参御蔭之日記』(『松阪市史』所載)はつぶさにこれを記録していて、文化十二年(一八一五)五月四日の項に「本町小津清左衛門殿ヨリ大橋之上ニ寝候衆へ、むすび茶施行」とある。
これは五日も行われ、これは五日も行われ、七日から二十一日まで連日むすび施行が続けられている。
そしてふたたび二十九日に復活、六月一日、二日、三日、四日と行われている。
大橋の傍に家を構える小津清左衛門には当然の務めとしての施行であった。
これは伊勢街道をもつ松阪人の心のやさしさであり、松阪商人の心意気でもあったのである。
どの時代でも同じであるが、松阪地方にも災害や火災があった。
そうしたときにも清左衛門は救恤に心を砕いたという。