小津330年のあゆみ

前頁次頁
目次

第一章

第二章

第三章
009・江戸店
009・十組問屋の結成
009・本店と繰綿
010・木綿店の創業
010・大伝馬町のきびしい問屋推移
010a・享保の時代
010a・天明の時代
011・向店の創設
011・天保、問屋解散令前後
012・問屋名鑑と長者番付
012・「旧幕引継書」と小津
013・支配人籐兵衛
013・幕府最後の紙問屋仲間との協約
014・江戸店(伊勢店)のこと
014・江戸店の組織と暮らし
014・算用帳
015・目代
015・諸役
015・子供衆
015a・支配人と仕分金

第四章

第五章

第六章

小津和紙

前頁次頁


小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


topnext

向店の創設
 小津清左衛門が江戸にもう一軒、紙問屋をもつことになったのは、天明四年(一七八四)六月のことであった。 当時の江戸は、前年の大地震と穀物の不作が後を引き、困難な時期であったが、伊勢山田一ノ木町の大橋又太夫の江戸店を四千百五十四両で譲り受け、大橋太郎次郎(沽券面は三好太郎次郎)の名義で紙問屋を創設した。 大伝馬町の本店とは道を隔てて向かい合うところから、向店と呼んで区別している。 向店は、紙を主に下り鰹節や茶も扱った。 松阪商人の間では江戸に店を出すに当って、初めは一店だけであっても、商売の成りゆきで二店もち、三店もつ例はは珍しくなかった。 長弘が創業したときには資金を融通してくれた小津三郎右衛門道休も店を三つもっていたし、木綿店の長谷川家も向店等五店をもっていた。 小津清左衛門も向店をもつことで紙問屋二店、木綿店一店の江戸店持ちとなった。 本店と向店は紙商としては同業であるが、向店の扱い品と得意先は大橋又太夫から引き継いでいて、競合よりも協調の利が多かった。 店の名の大橋(大橋屋)は大橋又太夫の姓を受け継いだもので、太郎次郎は清左衛門の幼名として代々名乗ってきた名であった。

 向店大橋太郎次郎は十組問屋仲間に入り、商売も本店に次いで繁盛する店となっている。 向店として創設されてから六十年ほど経った幕末の弘化三年(一八四六)刊の『新板大江戸持〇長者鑑』に、大橋太郎次郎は上位に載っている。 世間からも注目される大店となっていた。


『新板大江戸持〇長者鑑』(小津史料館複製展示)

天保、問屋解散令前後
 江戸は不思議な町であった。大火が続き、天災に出会いながらも活気づいていた。 人が集まると消費がふえ、物資が江戸へと流入してきたからであった。 それに将軍のお膝元という政治的理由から、諸藩の大名も江戸の復興に力を尽くした結果であった。 問屋仲間では文化七年(一八一〇)に冥加金年一万二百両を納めることを条件に、十組問屋の株が公認されて、十組問屋の組織は強化された。

 凶作が続けば庶民が困窮し、豊作が続けば米価が低落して、諸物価とのバランスが崩れるなど、幕府の市場政策を困惑させる事情が次つぎに生まれ、江戸は繁栄と困窮が共存する町であった。 商人のなかにも商売不振で代金の支払いが滞る店もあった。 小津の店の古い文書のなかに、天保三年(一八三二)壬辰五月付の銀四拾六貫余の支払い猶予を乞い、年賦支払いを約束する乗越証文が残されているが、紙屋治兵衛と署名しているこの紙商は、この年賦支払いもできず、証文を残したままに終わっている。

 そのころ思うように物価が下がらない理由として、幕府は問屋とその仲間組織が原因であるとした。 その結果もっともきびしい市場政策が打ち出されたのは、天保十二年(一八四一)十二月の株仲間解散令であった。 この法令のねらいは強い力をもつ十組問屋の解体にあって、ここで元禄七年(一六九四)以来約百五十年にわたって、江戸と大阪の流通を主軸に業界に君臨してきた十組問屋はついに終止符を打たれることとなった。 十組問屋解散で従来の商売の慣習が否定され、株仲間だけに許されていた商品取引にいまや誰でもが自由に参加できることになったのであるから、大変革であった。 これは、一見、自由経済で合理的のように見える政策であったが、代替する手段をもたない政策転換は、市場を混乱させ、商人も困れば消費者も困る状態を生んでしまった。 もともと株仲間解散は物価引下げが目的だけに、お上から価格の引下げの強要と監視が行われ、商売は、畏縮する一方であった。 解散令の最初の目標は十組問屋解散にあったが、四ヶ月後の翌十三年三月のお触れは徹底的な株仲間解散を目ざしていた。 問屋という名称は許されず、紙問屋は卸も小売も紙屋としなければならなかった。 それだけでなく、物価監視を確実にするため、商店が使っていた符牒の使用も禁止された。 役人には飲み込めない符牒でごまかすおそれがあるというのである。

 この株仲間解散令には世情に通じた奉行として有名な江戸南町奉行遠山左衛門尉景元が反対意見をもち、老中水野忠邦の命令をすぐさま実行しなかったので譴責されたという挿話も伝えられているが、この解散令で商品の流れは極端に悪くなり、市場は混乱のまま沈滞してしまった。 紙の商売もその例外ではなく、一般需要のほか、関連深い出版業も幕府の統制下に押さえられたうえ、心利く世話人がおらず沈滞したままなので、紙商にとって環境は悪化する一方であった。

 株仲間解散令のひずみがしだいに広がるにつれて、逆に、株仲間の機能の価値が認められて、株仲間再興令が出たのは嘉永四年(一八五一)であった。 そして問屋はふたたびその機能を十分に発揮できる環境になるのだが、その株仲間組織は解散令直前の姿とはちがい、商売に参加したいものは参加できる組織へと変わった。

 株仲間公認、株仲間解散令、その再興令と、問屋をめぐる環境は激動のなかを進んできたといってよく、とくに富商にはこうした商売上の問題とともに、幕府財政の窮乏に伴う御用金の下命が続いていた。 小津清左衛門はこの当時、江戸三店をもっており、紀州藩との折衝もあり、多事の時代であった。

 小津の店は、御用金に対してはそれ相応に幕府や藩の要望に応え、またそれに応え得る店としての繁盛を維持したが、それだけに、江戸店を預ける支配人たちの苦心と努力は大変なものであった。

前ページ次ページ

Copyright Ozu Shoten. 1999-2017 all rights reserved.