江戸は不思議な町であった。大火が続き、天災に出会いながらも活気づいていた。
人が集まると消費がふえ、物資が江戸へと流入してきたからであった。
それに将軍のお膝元という政治的理由から、諸藩の大名も江戸の復興に力を尽くした結果であった。
問屋仲間では文化七年(一八一〇)に冥加金年一万二百両を納めることを条件に、十組問屋の株が公認されて、十組問屋の組織は強化された。
凶作が続けば庶民が困窮し、豊作が続けば米価が低落して、諸物価とのバランスが崩れるなど、幕府の市場政策を困惑させる事情が次つぎに生まれ、江戸は繁栄と困窮が共存する町であった。
商人のなかにも商売不振で代金の支払いが滞る店もあった。
小津の店の古い文書のなかに、天保三年(一八三二)壬辰五月付の銀四拾六貫余の支払い猶予を乞い、年賦支払いを約束する乗越証文が残されているが、紙屋治兵衛と署名しているこの紙商は、この年賦支払いもできず、証文を残したままに終わっている。
そのころ思うように物価が下がらない理由として、幕府は問屋とその仲間組織が原因であるとした。
その結果もっともきびしい市場政策が打ち出されたのは、天保十二年(一八四一)十二月の株仲間解散令であった。
この法令のねらいは強い力をもつ十組問屋の解体にあって、ここで元禄七年(一六九四)以来約百五十年にわたって、江戸と大阪の流通を主軸に業界に君臨してきた十組問屋はついに終止符を打たれることとなった。
十組問屋解散で従来の商売の慣習が否定され、株仲間だけに許されていた商品取引にいまや誰でもが自由に参加できることになったのであるから、大変革であった。
これは、一見、自由経済で合理的のように見える政策であったが、代替する手段をもたない政策転換は、市場を混乱させ、商人も困れば消費者も困る状態を生んでしまった。
もともと株仲間解散は物価引下げが目的だけに、お上から価格の引下げの強要と監視が行われ、商売は、畏縮する一方であった。
解散令の最初の目標は十組問屋解散にあったが、四ヶ月後の翌十三年三月のお触れは徹底的な株仲間解散を目ざしていた。
問屋という名称は許されず、紙問屋は卸も小売も紙屋としなければならなかった。
それだけでなく、物価監視を確実にするため、商店が使っていた符牒の使用も禁止された。
役人には飲み込めない符牒でごまかすおそれがあるというのである。
この株仲間解散令には世情に通じた奉行として有名な江戸南町奉行遠山左衛門尉景元が反対意見をもち、老中水野忠邦の命令をすぐさま実行しなかったので譴責されたという挿話も伝えられているが、この解散令で商品の流れは極端に悪くなり、市場は混乱のまま沈滞してしまった。
紙の商売もその例外ではなく、一般需要のほか、関連深い出版業も幕府の統制下に押さえられたうえ、心利く世話人がおらず沈滞したままなので、紙商にとって環境は悪化する一方であった。
株仲間解散令のひずみがしだいに広がるにつれて、逆に、株仲間の機能の価値が認められて、株仲間再興令が出たのは嘉永四年(一八五一)であった。
そして問屋はふたたびその機能を十分に発揮できる環境になるのだが、その株仲間組織は解散令直前の姿とはちがい、商売に参加したいものは参加できる組織へと変わった。
株仲間公認、株仲間解散令、その再興令と、問屋をめぐる環境は激動のなかを進んできたといってよく、とくに富商にはこうした商売上の問題とともに、幕府財政の窮乏に伴う御用金の下命が続いていた。
小津清左衛門はこの当時、江戸三店をもっており、紀州藩との折衝もあり、多事の時代であった。
小津の店は、御用金に対してはそれ相応に幕府や藩の要望に応え、またそれに応え得る店としての繁盛を維持したが、それだけに、江戸店を預ける支配人たちの苦心と努力は大変なものであった。