天保十二年(一八四一)問屋仲間組合が禁止された年で、天保の改革が進行し、問屋には幕府からしばしば物価引下げが命じられ、また物価の書上げや取引の書上げが求められていた。
旧幕文書のなかにはこの時代の問屋の書上げが多数残されていて、紙値段調べの部には紙問屋の書上げがあり、それには小津清左衛門の店の署名人に支配人藤兵衛の名が見える。
藤兵衛が小津清左衛門支配人として、紙屋仲間とともに署名した文書の多くは船便の報告で、それを見ると大阪から入津する積荷の様子がわかる。
その一つは大州半紙の例で、その要旨はまだ入津していないが、荷の量と売値をお届けするというものである。
積荷は小津等江戸の紙商の荷で、大州半紙四百三拾丸が積まれ、そのうち、小津百五拾丸、大橋百五丸と記されていて、積荷の六割が小津清左衛門の江戸二店のものであった。
物価統制の天保時代のこととて、小売値段、卸値段、海上運賃、大阪浜駄賃、問屋の売徳銭等の額が記されている。
売徳銭については一丸につき六分と記されている。
幕府の市中相場への干渉のきびしさがうかがえる例で、支配人藤兵衛は大変な時代に本店を背負っていたのであった。
藤兵衛については奉行所に「預け(留め置き)」になったときの仲間の文書が残されている。
貰い下げを願い出た文書で、当時の紙商の状況や小津二店の立場がわかる。
それは天保十五年(一八四四)七月一日の出来事から始まっている。
この日、紙問屋仲間の十一名が奉行所に呼び出され、「紙問屋たちの大阪方との紙値段の交渉が幕府の物価引下げ方針に添っていない」と、きびしい取調べを受けた。
奉行所の態度は強硬で話が決着しないかぎり許さないとして、一日の呼び出しに続いて五日にも呼び出しをかけるなど、きびしい申し渡しだったので、問屋仲間は大阪へ急飛脚を差し立てるなどしたことが記されている。
このとき、紙仲間を困惑させたのは小津の支配人藤兵衛と大橋(向店)の支配人文兵衛の二人が、一日に召し出されたまま「お預け」になってしまったことであった。
そこで、問屋仲間九名は連署で「只今、大阪方へ急飛脚を差し向けて、増銀の件は撤回するよう交渉している。
まだ返事は着かないが、ぜひ両名を差し免じていただきたい」という趣旨の願い書を差し出している。
そのなかには当時の紙業界仲間の困惑を述べたくだりがあり、「小津と大橋は手広く商売をしている店であるが、今回のことで商売を休んで謹慎している。
その結果、実は関係の商人から紙漉職人まで大勢の人たちが困惑している」と述べられている。
「右両人儀とも紙屋ともの中にても格別渡世向き手広に仕り候ゆゑ、たとへは荷物千丸着船仕り候節、五百丸は当人ともにて引受け、残り五百丸を九人の者とも引受け候位の振合に御座候」と、この両人の市中の売りさばき先が多数で、末端の小さい店では両店の荷を仕入れて、元金手薄ながら活業している者が多い。
このため両店が店を閉じていると多分に迷惑している。
私どもも相歎いているが、新規に売買を始めて補うにも行届き難く、実に難儀している。
また、駿州、甲州、常州、野州、武州、東国より両店へ送られてくる荷については、紙漉きの者はその日その日の稼ぎの者で、荷を商人に任せ、商人が個数を揃えて両店へ送って売りさばき、月々順々に仕切金を受け取って山方漉工へ勘定を渡しているような次第で、一ヶ月滞るとその日の暮らしに難渋する者たちもいる。
このようなわけで「人情もたし難く」、格別の御憐愍(れんびん)をもって、御慈悲の御沙汰を下し置かれますようにというのである。
この文書は紙問屋仲間が奉行所へ差し出したものだけに、その内容は信頼できるものである。
また、商売仲間が奉行所にお預けになっているときに商売はできない、「新規の売買を始めても行届き難い」と奉行所の思惑をかわしているのも、当時の商売のあり方の一面を語っている。
店を代表し、また問屋仲間の代表格で奉行所に「お預け」になるなど、天保時代の本店支配人の役目は一段と骨が折れたことであった。
本店-小津清左衛門の店とともに、向店-大橋太郎次郎の店が江戸紙問屋を代表する店となり、主だった数店とともにつねに文書にその名が出ているのは、小津の二出店(江戸店)が揃って盛業であったこと、しかも、それぞれが江戸紙問屋の筆頭格であったことで、思えば小津清左衛門の江戸出店は驚異的成功をおさめていたのであった。