小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章
009・江戸店
009・十組問屋の結成
009・本店と繰綿
010・木綿店の創業
010・大伝馬町のきびしい問屋推移
010a・享保の時代
010a・天明の時代
011・向店の創設
011・天保、問屋解散令前後
012・問屋名鑑と長者番付
012・「旧幕引継書」と小津
013・支配人藤兵衛
013・幕府最後の紙問屋仲間との協約
014・江戸店(伊勢店)のこと
014・江戸店の組織と暮らし
014・算用帳
015・目代
015・諸役
015・子供衆
015a・支配人と仕分金

第四章

第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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支配人藤兵衛
 天保十二年(一八四一)問屋仲間組合が禁止された年で、天保の改革が進行し、問屋には幕府からしばしば物価引下げが命じられ、また物価の書上げや取引の書上げが求められていた。 旧幕文書のなかにはこの時代の問屋の書上げが多数残されていて、紙値段調べの部には紙問屋の書上げがあり、それには小津清左衛門の店の署名人に支配人藤兵衛の名が見える。

 藤兵衛が小津清左衛門支配人として、紙屋仲間とともに署名した文書の多くは船便の報告で、それを見ると大阪から入津する積荷の様子がわかる。 その一つは大州半紙の例で、その要旨はまだ入津していないが、荷の量と売値をお届けするというものである。

 積荷は小津等江戸の紙商の荷で、大州半紙四百三拾丸が積まれ、そのうち、小津百五拾丸、大橋百五丸と記されていて、積荷の六割が小津清左衛門の江戸二店のものであった。 物価統制の天保時代のこととて、小売値段、卸値段、海上運賃、大阪浜駄賃、問屋の売徳銭等の額が記されている。 売徳銭については一丸につき六分と記されている。 幕府の市中相場への干渉のきびしさがうかがえる例で、支配人藤兵衛は大変な時代に本店を背負っていたのであった。 藤兵衛については奉行所に「預け(留め置き)」になったときの仲間の文書が残されている。 貰い下げを願い出た文書で、当時の紙商の状況や小津二店の立場がわかる。

 それは天保十五年(一八四四)七月一日の出来事から始まっている。 この日、紙問屋仲間の十一名が奉行所に呼び出され、「紙問屋たちの大阪方との紙値段の交渉が幕府の物価引下げ方針に添っていない」と、きびしい取調べを受けた。 奉行所の態度は強硬で話が決着しないかぎり許さないとして、一日の呼び出しに続いて五日にも呼び出しをかけるなど、きびしい申し渡しだったので、問屋仲間は大阪へ急飛脚を差し立てるなどしたことが記されている。 このとき、紙仲間を困惑させたのは小津の支配人藤兵衛と大橋(向店)の支配人文兵衛の二人が、一日に召し出されたまま「お預け」になってしまったことであった。 そこで、問屋仲間九名は連署で「只今、大阪方へ急飛脚を差し向けて、増銀の件は撤回するよう交渉している。 まだ返事は着かないが、ぜひ両名を差し免じていただきたい」という趣旨の願い書を差し出している。 そのなかには当時の紙業界仲間の困惑を述べたくだりがあり、「小津と大橋は手広く商売をしている店であるが、今回のことで商売を休んで謹慎している。 その結果、実は関係の商人から紙漉職人まで大勢の人たちが困惑している」と述べられている。

「右両人儀とも紙屋ともの中にても格別渡世向き手広に仕り候ゆゑ、たとへは荷物千丸着船仕り候節、五百丸は当人ともにて引受け、残り五百丸を九人の者とも引受け候位の振合に御座候」と、この両人の市中の売りさばき先が多数で、末端の小さい店では両店の荷を仕入れて、元金手薄ながら活業している者が多い。 このため両店が店を閉じていると多分に迷惑している。 私どもも相歎いているが、新規に売買を始めて補うにも行届き難く、実に難儀している。 また、駿州、甲州、常州、野州、武州、東国より両店へ送られてくる荷については、紙漉きの者はその日その日の稼ぎの者で、荷を商人に任せ、商人が個数を揃えて両店へ送って売りさばき、月々順々に仕切金を受け取って山方漉工へ勘定を渡しているような次第で、一ヶ月滞るとその日の暮らしに難渋する者たちもいる。 このようなわけで「人情もたし難く」、格別の御憐愍(れんびん)をもって、御慈悲の御沙汰を下し置かれますようにというのである。

 この文書は紙問屋仲間が奉行所へ差し出したものだけに、その内容は信頼できるものである。 また、商売仲間が奉行所にお預けになっているときに商売はできない、「新規の売買を始めても行届き難い」と奉行所の思惑をかわしているのも、当時の商売のあり方の一面を語っている。

 店を代表し、また問屋仲間の代表格で奉行所に「お預け」になるなど、天保時代の本店支配人の役目は一段と骨が折れたことであった。

 本店-小津清左衛門の店とともに、向店-大橋太郎次郎の店が江戸紙問屋を代表する店となり、主だった数店とともにつねに文書にその名が出ているのは、小津の二出店(江戸店)が揃って盛業であったこと、しかも、それぞれが江戸紙問屋の筆頭格であったことで、思えば小津清左衛門の江戸出店は驚異的成功をおさめていたのであった。

幕府最後の紙問屋仲間との協約
 慶応三年(一八六七)、この年は幕府が最後の力をふりしぼって、態勢の立て直しを図っていた年であるが、この年の十一月二十五日に紙問屋仲間(一番組)の主だった者が奉行所に呼び出されて、組仲間の規約について指示を受けた。  趣旨は嘉永四年(一八五一)の問屋組合再興令が出た際に保留になっていた組仲間の規約を差し許すというのであった。 再興令当時に「調べておく」としたまま放置された形になっていた「商法筋」に対し、急に風向きが変わって「よろしい」となったのである。 しかし、それには代償がついていて、一番組の紙問屋仲間一同で身元金を毎年五千両ずつ上納することが条件となっていた。 さっそく仲間が集まって相談し、奉行所の話はありがたく受け入れることにしよう、いまはどうこう言えるときではないという結論を出し、この話をまとめている。

 このときの幕府からの指示や上納金の話はほとんど知られていないので、その全文を次頁に記すが、本店と向店が加わっている紙問屋一番組の組仲間は十八店あった。 一番組紙問屋仲間はこのとき、今回の仰せは「冥加至極ありがたき仕合せ」とし、年々上納金五千両を納めます。 ついては諸国紙問屋と称することを承知してほしいと申し出ている。 また、いままで仮組といっていたのを取りやめてくれてありがたいと述べている。 幕府は大きく傾いていたが、その権威がまだ保たれていた時期であった。 一番組名簿の筆頭に小津清左衛門の名があり、署名欄には一番組紙問屋十八名の総代として森田屋平兵衛秀蔵、村田七右衛門支配人定蔵に続いて、小津清左衛門支配人仁兵衛が署名している。 向店では支配人理兵衛が署名している。

 呼び出しは二番組紙問屋仲間にもあった。二番組仲間の人たちもまた幕府の意向を受け入れて、四店で毎年四百両の身元金を上納することを約束している。 このとき、差し出した二番組の上書の内容は一番組と少し異なっていて、商圏について「荷請方の儀は壱番組の者とは金高も相劣り候ニ付、武州、常州、野洲三カ国の荷物引受け方不仕候段示談仕り候」と申し出ている。

また、組の名乗り方も一番組は単に「壱番組紙問屋」としているのに対し、二番組は「紙問屋之内、弐番組と唱候者」としている。

 こうして、紙問屋仲間は身元金上納の約束をするとともに、あらためて組仲間の認証を受けたのであった。 組仲間から幕府へ上書を出した十二月は世情が一段と騒然としており、江戸の薩摩屋敷焼討ち、江戸城二の丸火災等が発生した。 明けて慶応四年(一八六八)正月には新政府の徳川慶喜追討令、四月江戸城明渡しと続いている。 束の間の問屋仲間認証だったわけで、問屋仲間は奉行所からの申し渡しを受けて、対応に苦慮したことと思われる。 小津にあっても松阪の本家、本店、向店を含めて、気重い出来事であった。

                         壱番組
                           紙問屋
          乍恐以書付奉申上候
              紙問屋
                (十八店の連名−−−−−住所氏名)(略)
右拾八人之者共一同奉申上候去月二十五日仲間奉行ならびに重立候者被  召出去ル嘉永四亥年問屋再興被 仰付商法筋之儀者御調之上追御沙汰被成下旨被  仰渡當時御調中御座候處今般格別之以
御仁惠商法筋相立候様御聞置被下置永々問屋株札壹人別御渡被下置候趣被  仰渡冥加至極難有仕合奉存候然ル上者  御恩澤之程問屋一同相弁爲身元金右拾八人ニ而壹ヶ年金五千兩宛連年上納仕候間諸國問屋被  仰度且假組之義問屋一葉相成候旨ニ而假組唱候義己來相止候趣被  仰渡難有奉承伏候右之内手廣渡世仕候者問屋取結上納出苑蒲ァ候間前書願之通御聞済被成下置度此段偏奉願上候己上
     慶應三卯年十二月
           紙問屋拾八人惣代
             (九名連書  署名者印)(略)

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