大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災により小津清左衛門東京店は大きな被害を受けた。
大伝馬町の本店は店舗と蔵が被害にあい、その日の夕刻には延焼してきた火事によって灰燼に帰している。
その日、大伝馬町界隈は朝から雷雨であったが、正午近くにはすっかり晴れ上がり、活気のある夏の日となっていた。
そこへ突然の烈震である。がっしりと造られていた屋根瓦もずれ落ちた。
このとき店にいたある店員は、後日「店では平素から防火にやかましかったので、地震が一まずおさまると店員たちはきまりどおりに土蔵の窓の目塗りにかかったが、塗り終えて土蔵に入ったら、普段は暗い土蔵のなかに屋根から明るい光が射し込んでいるのでびっくりした」と語っている。
店の人たちがしだいに広がってくる火の手に危険を感じ出したのは、午後二時ころからであった。
そこで支配人の指図で避難することとなった。
店には平常は大八車が何台もあったが、地震の後、乞われるままに貸してしまっていて、いざ自分たちが使うときになったら小型の荷車二台しか残っておらず、それに非常持ち出しの帳簿をまず積み、鍋釜、米、梅干一樽を積み、「行先は宮城前広場の楠公銅像のところ」と申し合わせ、店を後にしている。
迫ってくる火の手を避けつつ、茅場町から日本橋交差点を経て宮城前へ向かった。
大伝馬町の店に火がまわったのは午後四時ころだった。
様子を見に戻った店員(子供衆(こどもし))の一人が、店のひさしに火のつくのを見ている。
「ああ、店が焼ける!」と息をのんだのであるが、それが店を見た最後であった。
大伝馬町に迫ってきた火は本石町、十軒店方面から延焼してきたもので、店が蔵もろとも焼けたのは五時ごろであった。
この日、店には蔵一杯に荷が入っていた。
とくにマニラ障子紙は需要期に向けて積極的に売り込もうとしていたときで、ちょうどこの日に入荷した荷が奥の蔵はもちろん、店の前にも積み込まれていた。
この日、午前中から判取りに出た者がいて、そのなかで子供衆三人が帰ってこず、店の者は心配し続けたが探すすべもなく夜を迎えた。
このため楠公銅像傍の芝生で夜を明かすこととし、焼跡に避難先を書いた立て札を立てて、翌日もその場を動かず、三人の安否や店の縁故者の家族の身などを案じつつ、上野公園や心当たりのところへ人を出して、皆で心配していた。
三日になってからとりあえず取引先の東製紙(高田馬場にあった)へ移ることとし、九段を経て高田馬場へ向かった。
一同を喜ばせたのは行方のわからなかった三人が取引先の人たちの助力を得て、避難先へ戻ってきてくれたことであった。
そして、全員の無事が確認された。
「東京に大震災」の報に松阪の本家は憂色に包まれていた。一報ごとに災害の度は大きくなる一方であった。
しかし、詳報は入らず、本家では小津清左衛門(長謹)を始め本家をあげて東京の人たちを案じ続け、店員の両親や家族には目代を通じて慰問するとともに、日ごろから崇拝する伊勢神宮、小津家の守護神、初瀬観世音に祈願し、東京店の人たちの無事を祈っていた。
東京が一面焼野原となり、店舗も商品も焼け、取引先もほとんど罹災したので、在京の幹部によって店の応急対策が決定され、指示がでたのは九月五日であった。
それによると幹部は東京に残って罹災後の処理に当り、店員は一時解散して伊勢に戻り、次の沙汰を待てというもので、一律に十五円ずつ渡された。
このため店員は折からようやく運転を再開した鉄道や船便を使って伊勢へ帰ったり、東京近郊の親戚に身を寄せたりした。
汽車を利用した者は信越線を経て、篠ノ井から中央線を貨車に乗り、名古屋へ出て伊勢へ帰っている。
残留した幹部たちは東製紙にしばらく世話になった後、五軒町の鈴木封筒店の二階に移り、ここで善後処理と再建に奔走した。
関東大震災当時、店をあずかっていた幹部は支配人小黒久吉、それに西山勝次郎、別府健三郎、奥山賢蔵らの現役幹部、別家の青恒蔵、小菅宇之助、佐野助三郎らであった。
小津清左衛門本店
関東大震災は東京、横浜を中心に多数の犠牲者を出したが、小津では幸いのことに一人の負傷者もなかった。
しかし、経済的な損害は大きく、あとにまで深い影響を及ぼした。