己卯組看板(小津史料館展示)
東京の和紙問屋仲間が己卯(きぼう)壱番組紙問屋仲間(己卯組と呼ばれる)を結成したのは明治十二年(一八七九)四月であった。
明治新政府の流通政策は試行錯誤の連続で、旧弊打破を旗じるしに江戸時代の慣習破棄で臨んでいたが、これが裏目に出て市場の混乱が続いた。
自由がかえって無責任な商法をはこびらせ、それに維新の政治の混乱も加わったので、東京への物資の流入が減ったうえ、粗悪品が出まわり、物価は上がるという状態になっていた。
そこで改めて問屋制度の利点が見直され、一転して明治三年(一八七〇)には問屋仲間をつくることが奨励されることとなった。
紙の流通も混乱していた。藩制時代の専売制が廃止されたので、新しい集荷制度が生まれるまで、生産も減り、流通も円滑を欠いていた。
これは新政府の施策が立ち直り、浸透するにつれ改善された。
己卯組は第一次の組合が明治十二年(一八七九)四月から明治十六年(一八八三)九月まで続き、ここで一たん解散し、翌明治十七年(一八八四)に第二次の己卯組として再建された。
この第二次の己卯組は有力な和紙問屋組合となり、後のちまで業界に重きをなしたのである。
小津清左衛門(本店)は第一次組合にも第二次組合にも同志とともに発起人となり、設立に尽力した。
向店も発起人の一員であり、小津の東京二店が参画していたが、わけても本店は指導的役割を果たしていた。
このときの本店の支配人は釜田栄蔵で、向店の支配人は長谷川定助であった。
己卯組、とくに第二次己卯組は和紙取引の正常化に大きな成果をあげた。
己卯組がつくった取引規約は二十一条からなり、取引方法を具体的にあげて、取引の基準を示した。
その要点は「送り状のない荷物は一切取引しない」「荷の売渡しはすべて現金で行う。
もし勘定が滞った者や実意のない仕向けがあったときは、その名を組合に通知して一同取引しない」
「送り荷物の定め口銭は仕切代金の百分の三分五厘を申し受ける」などで、仲間一同が遵守を申し合わせた。
こうした条項は従来の紙取引の慣習を成文化したものであるが、己卯組は実力のある問屋の集まりであったから、格調のある商取引を重んじ、大手和紙問屋の品格が永く守られる原動力になった。