小津清左衛門(本店)が砂糖を扱っていた時期があった。
維新前後から明治二十年(一八八七)の間で、紙、繰綿のほかに下り鰹節を扱っていた小津にとって、砂糖は扱うのにふさわしい商品であった。
天保十二年(一八四一)以来続いている砂糖問屋仲間の「太々講」という組合に加入し、一番組問屋になっている。
明治四年(一八七一)十二月に太々講仲間のなかで新政府治下の砂糖問屋組合結成の話が急に進み、東京府知事に組合設立の願書を提出しているが、このとき小津清左衛門の店を代表して、支配人宮村安兵衛が署名している。
この第一次砂糖組合は政府の方針変更で一年足らずで解散になった。
そして、明治十一年(一八七八)にふたたび砂糖問屋組合を設立することとなり、砂糖問屋仲間が集まって監札下付願を東京府知事に提出した。
この願書には小津清左衛門出店主として土屋彦兵衛が署名している。
第二次砂糖問屋組合には従来から問屋を営む一番組問屋と、新興の二番組問屋が加入していた。
そのころ、政府の方針は問屋を名乗ることを許していなかった。
そのうえ、市場は国産砂糖に加え輸入物が出まわり、混乱が続いていて、むずかしい時期であった。
組合の役員は仲間が交代で務める約束で、小津清左衛門は明治十五年(一八八二)に肝煎を務めている。
このように砂糖問屋として活動する小津であったが、明治二十年(一八八七)八月に休業して砂糖卸業から撤退している。
明治十八年(一八八五)と明治二十年(一八八七)ころの小津清左衛門出店主として署名しているのは支配人清水周蔵であった。
『持丸俳優力量競』歌川国政(梅堂国政)画 明治九年(一八七六)
東関脇に小津清左衛門、東前頭三枚目に大橋太郎兵衛(向店)