大正時代後期の主要な和紙について、その産地と原料をここに記しておきたい。
これはかつて和紙研究家の関義城氏が奥山賢蔵の懇請により、小津のために執筆された『和紙の歴史』のなかで、大正時代後期の和紙の産地と使用原料を考察された記録の要約である。
美濃紙----主産地は高知、愛媛、茨城、岐阜の諸県で、茨城は西の内、愛媛は主に柳書院で、岐阜産は紙質上等で価格がもっとも高い。
原料には、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、亜硫酸パルプが使われ、上等品はパルプが二割、下等品は七割以上のパルプを使用している。三椏は一、二割を使う。
半紙----主産地は高知、愛媛、静岡の諸県で、普通半紙(主に高知)は楮、パルプ、藁を原料とし、改良半紙(主に愛媛、静岡)は三椏を原料とするので、柳半紙ともいわれる。
鳥子紙----主産地は福井、静岡の両県で、原料には三椏、亜硫酸パルプ、曹達パルプが使われ、質は局紙とまったく同じ。サイズを施し、澱粉を添加し漉込む。あるものには白土を加える。
上等なものは三椏のみを用い、下等なものはパルプを七割ほど混用する。
雁皮紙、薄葉紙----主産地は高知、岐阜、岡山、静岡、愛媛の諸県で、コピー紙が主要なもの。
原料は三椏であるが、品質の劣るものには藁または反古を混ぜる。
コピー紙の謄写原紙もこの種に属し、上等謄写原紙は純雁皮製の薄葉紙、中等、下等品は三椏を混ぜ、最下等品は三椏だけで製する。
吉野紙、典具帖----主産地は吉野紙は岐阜、典具帖は高知、岐阜。吉野紙、典具帖とも楮を原料とする薄紙で、岐阜は簀典具、高知は主に紗典具である。
この二紙は和紙のなかでもなお需要が伸びている紙で、化粧紙、化粧品包装用紙、製本用紙などとして多少の輸出がある。
東洋紙、唐紙、画仙紙----東洋紙は半紙や美濃紙に質が似ていて中国へ輸出される。唐紙や画仙紙は楮や藁を原料とする。
最近多く製造されるのは改良唐紙で、三椏、亜硫酸パルプ、藁(スベ)を適当に配合したもの。
奉書、杉原紙----主産地は愛媛、福井の両県で、愛媛は藁奉書を多く産する。奉書、杉原、壇紙は皆同一種で、原料は楮、パルプ、藁で、米糊を添加する。
杉原紙は奉書に比べると品質が劣る。
漉返紙----主産地は岡山、東京、広島、福岡、新潟、三重その他各地で生産される。
反古を主原料とし、簡単に叩解し抄紙する。多くは地方的に消費される。
以上のように展望考察され関義城氏は、「半紙と称される紙類も亜硫酸パルプを原料とし、しかも機械漉きによるものが多数を占めるようになり、生漉きの半紙はしだいに減少した」と述べられ、さらに生漉和紙について、
「この当時、純生漉和紙で将来に生命を保つべきものは典具帖、コピー紙、傘紙、元結原紙、水引紙、図引用紙、謄写版用紙、型紙原紙に限られるのではないかといわれた」
と、時代の流れと生漉和紙の将来を展望し、考察を結ばれている。
当時の手漉和紙の生産高は大正九年(一九二〇)をピークに漸減へと転じている。大正九年(一九二〇)は第一次世界大戦後の好況から一転して大不況に見舞われた時期であり、紙業界もまた混乱と失意に見舞われている。
小津はそうしたなかで手漉和紙を大切にしつつ、将来を展望して機械漉和紙の扱いを進めた。