江戸時代のしきたりが濃く残っていた明治時代に比べれば、大正時代はゆるやかなものとなっていた。
その大きな変化は三番登りを終えると、結婚して自宅から通勤することが許されたことだった。
いろいろなしきたりの改変を一挙に促進させたのは関東大震災であった。
江戸時代から続いていた重厚な土蔵作りの店舗が焼失したことで、様変わりが生まれた。
仮営業所は当面の急に対応したものだったが、従来の座売り式が椅子式に変わった。
この大きな変更のきっかけは避難先の鈴木封筒店の二階で営業していたときに出た若い店員からの提案で、座売り式よりも椅子式の方が動作も敏しょうになり、能率的だという意見が取り入れられた結果であった。
服装も着物、前掛け姿から詰襟のサージの洋服に変わった。
この変わりように「伊勢店の格調を重んじる伝統の小津が・・・」と、大伝馬町の問屋仲間や同業者の話題を呼んだ。
給与形態も大正十三年(一九二四)五月から変わり、住込制はそのままで月給制となった。
店の荷の扱い方も新店舗になってから大きく変わり、荷車で蔵の前まで直接運び込まれるように改められた。
これも若い店員からの提案で、従来は店先に荷を下ろし、それを人手で奥の蔵へ運んでいたのであるから大きな改善であった。
しきたりを重んじる隠居さんたちはこれをみて「蔵前まで荷車を入れるとはもってのほか」と渋い顔をしていた。
店員を呼ぶ「どん」という呼称が「君(くん)」に変わったのは、それから大分後の昭和十年(一九三五)であった。
女子店員が採用されて店の帳場で仕事をするようになったのは、その三年後の昭和十三年(一九三八)であった。
承応二年(一六五三)の創業以来の出来事で、創業二百八十余年にして女子が入店したのである。
なにぶんにも男世帯の伊勢店の大変革だったので、店の幹部も随分と気を使った。
男子店員にとってもまぶしい出来事であった。
縁故による志望者を採用していたのであるが、店の幹部の詮衡は慎重をきわめ、いよいよ採用と決まってから、男子店員たちは上司から懇々と戒めの言葉を受けている。
それは「みだりに馴々しくしてはいけない」「仕事以外の話をしてはいけない」等であった。
女子店員の採用は戦争で人手が減ったためであったが、時代の流れでもあった。時代はしだいに、そして大きく変わっていった。