小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

022・個人経営から法人へ
022・合資会社小津商店の設立
022・本店最後の決算書
023・伊勢店に新しい風
023・戦時統制経済と小津
023・軍需ふえる
024・狭められる経済活動
024・綿を営業品目からはずす
024・小津商事株式会社、株式会社鱗商店設立
024・企業整備−さらに統制強化へ
025・紙糸や代用ガラス等を扱う
025・風船爆弾と小津
025・満州と小津
第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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伊勢店に新しい風
 江戸時代のしきたりが濃く残っていた明治時代に比べれば、大正時代はゆるやかなものとなっていた。 その大きな変化は三番登りを終えると、結婚して自宅から通勤することが許されたことだった。

 いろいろなしきたりの改変を一挙に促進させたのは関東大震災であった。 江戸時代から続いていた重厚な土蔵作りの店舗が焼失したことで、様変わりが生まれた。 仮営業所は当面の急に対応したものだったが、従来の座売り式が椅子式に変わった。 この大きな変更のきっかけは避難先の鈴木封筒店の二階で営業していたときに出た若い店員からの提案で、座売り式よりも椅子式の方が動作も敏しょうになり、能率的だという意見が取り入れられた結果であった。 服装も着物、前掛け姿から詰襟のサージの洋服に変わった。 この変わりように「伊勢店の格調を重んじる伝統の小津が・・・」と、大伝馬町の問屋仲間や同業者の話題を呼んだ。

 給与形態も大正十三年(一九二四)五月から変わり、住込制はそのままで月給制となった。

 店の荷の扱い方も新店舗になってから大きく変わり、荷車で蔵の前まで直接運び込まれるように改められた。 これも若い店員からの提案で、従来は店先に荷を下ろし、それを人手で奥の蔵へ運んでいたのであるから大きな改善であった。 しきたりを重んじる隠居さんたちはこれをみて「蔵前まで荷車を入れるとはもってのほか」と渋い顔をしていた。

 店員を呼ぶ「どん」という呼称が「君(くん)」に変わったのは、それから大分後の昭和十年(一九三五)であった。 女子店員が採用されて店の帳場で仕事をするようになったのは、その三年後の昭和十三年(一九三八)であった。 承応二年(一六五三)の創業以来の出来事で、創業二百八十余年にして女子が入店したのである。 なにぶんにも男世帯の伊勢店の大変革だったので、店の幹部も随分と気を使った。 男子店員にとってもまぶしい出来事であった。 縁故による志望者を採用していたのであるが、店の幹部の詮衡は慎重をきわめ、いよいよ採用と決まってから、男子店員たちは上司から懇々と戒めの言葉を受けている。 それは「みだりに馴々しくしてはいけない」「仕事以外の話をしてはいけない」等であった。 女子店員の採用は戦争で人手が減ったためであったが、時代の流れでもあった。時代はしだいに、そして大きく変わっていった。

小津商報
小津商報(小津史料館展示)
小津商報は、明治中頃から小津商事株式会社が設立される昭和十四年(一九三九)まで発行された。

戦時統制経済と小津
 昭和六年(一九三一)に起きた満州事変をきっかけに日本経済は大きな変化へと入っていった。 中国における戦局の拡大は国際的な緊張を生み、しだいに大きな戦争へと拡大していったが、それは経済活動や国民生活にきびしい影を落とし、ついには第二次世界大戦へと発展し、昭和二十(一九四五)年の終戦に至るまで、十五ヵ年にわたる戦時期へと激動していった。 この間、一時期には軍需による好況があり、あるいは満州国建設など、大陸への進出もあったが、戦局の拡大による圧迫は物資の窮乏、そして相次ぐ戦災を招き、波乱の多い十五年であった。

 小津商店は変転する情勢を踏まえつつ健気に活動した。 まだ商売の自由が保たれていた時期には、実に積極的に商売に励んだ。しかし、統制経済の枠組みに組み込まれていき、商権を組合に移すことを余儀なくされると、商売はしだいしだいに狭められた。 また社員も一人、一人と招集されていくのであった。それはきびしい推移であったが、いくつもの挿話も生まれている。

軍需ふえる
 昭和の初めの不況時代にそこだけに確かな需要があるもの、それは軍への納品だった。 小津はそれまでは軍へ直接納入する例はなかったが、新発足の小津商店は新しい営業方針として軍需開拓が打ち出され、その結果、昭和六年(一九三一)近衛歩兵第三連隊酒保への納入となった。 これがきっかけとなって、小津商店の名が軍の関係官に通りやすくなり、納入量がふえ始めていった。 老舗であることが知られるにつれ、些事もゆるがせにしない伊勢店の誠実、それに担当社員の熱意が買われたのであろう。 納入は近衛師団司令部、第一師団司令部経へと広がり、さらに陸軍需品本廠への大口納入が続ぞく決まるようになった。 軍への納入の主なものは白紙(改良半紙)であったが、後には印刷物の受注も認められ、罫紙や功績名簿用紙などを納めた。 軍で使用する公式の用箋は和紙であって、しかも膨大な量だったので小津のよい得意先となっていた。 昭和十三年(一九三八)ころがもっとも多く納入した時期である。 軍需は紙が統制になって組合に移譲されるまで続いた。

 陸軍の用箋は全戦線へ送られる。 たまたま軍需を担当していた社員の一人が応召して戦地へ行っていたが、前線の中隊本部で使っている用箋が小津納品のものだったので、なつかしさが込みあげてくるのを押さえかねたという。

 戦時中の紙の需要として忘れ得ないものに、ちり紙があった。 戦地の兵士慰問のため、銃後の婦人たちが個人や学校、団体で慰問袋をつくり、軍に依託したり、あるいは小包で戦地へ送った。 慰問袋は手拭やさらし木綿(後にはスフ)で袋をつくり、日用品や甘味ものを詰めて送るのであるが、そのなかには必ず「ちり紙」が入れられたので、各地の得意先から注文が入り、大量に出荷されていった。

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