太平洋戦争のさなかに日本軍が飛ばした秘密兵器「風船爆弾」の話は、奇抜なアイデアとして語られているが、あの風船爆弾の材料として使われた和紙の開発に、その着想の時点から小津商店が関与して目的の紙の完成に終始協力したことは、知る人がほとんどなく、風船爆弾の研究が昭和四年(一九二九)にすでに始められていたことは、公的な記録にも残されていない。
風船爆弾というのはコンニャク糊で強化加工した和紙で大きな気球を作り、約一万メートルの高空に浮揚させ、偏西風に乗せてアメリカ大陸へ向けて飛ばし、彼の地で爆発発火させて火災を起こさせる仕組みになっていた。
昭和十九年(一九四四)秋から二十年四月にかけて約九千個が茨城や福島の海岸から秘密裡に発射(放球)された。
「紙について相談したいことがある」という電話が、国産科学工業研究所というところから入ったのは昭和四年(一九二九)であって、店員の一人が指し向けられた。
国産科学工業研究所は目黒区の丘に囲まれた場所にあった。
そこで風船爆弾の構想を打ち明けられ、秘密を守ること、第三者には気付かれず、しかも急げという要請を受けた。
重要な要請だったので店の幹部と担当者だけの秘密事とし、作業が進められた。まず、店にある四、五十種類の紙を片っぱしから実験に供した。
しかし、そのどれもが満足すべき結果が得られず、特別な手法を用いて新しく漉くよりほかはないと、小津の取引先である埼玉県小川の紙屋(産地問屋)の協力を求め、その店の仕事をしている紙漉屋で漉いてもらった。
風船爆弾の気球用として要求される紙の質は高度のもので、楮の生一本でつくる小川の和紙(細川紙)でも、すぐには要求どおりの強度と密度の紙は得られなかった。
しかし、紙漉きを引き受けてくれた人たちの熱心な研究と努力で、約四ヵ月でほぼ満足できる紙の抄造にこぎつけることができた。
紙漉きを担当してくれたのは産地紙問屋新井商店の仕事をしている久保さんという紙漉屋であった。
風船爆弾用の紙は六尺(約二〇〇センチ)×ニ尺二寸(約七三センチ)の紙に、別に漉いたニ尺二寸四方の紙を三枚並べて貼り、二層にした。糊はコンニャク糊で二十数回塗り重ねた。
この風船爆弾用紙は小津が納入した。その後、紙の統制が始まってからは、納入は組合に移譲された。
また、手漉きには生産量に限界があるところから機械漉きへの転換が行われ、日本紙業の伊野工場等が機械漉きの試作を担当し、約一年で量産態勢ができあがっている
風船爆弾の研究を推進したのは近藤至誠氏であった。
近藤氏は士官学校出身で軍籍にあった当時から風船爆弾の構想をもっていたという。
俊秀の人であったが、風船爆弾が正式兵器に制定される日を待たず病気のため世を去っている。
風船爆弾研究の経緯や小津との関係については、小津の関係者も公の場では多くを語ろうとしなかったので、今日までこの部分は空白であった。
しかし、『小津三百三十年史』を編纂するに当って、当時の担当者岡村政三氏の新たな証言を得たこともあり、歴史的事実として記録にとどめることは有意義であるとの判断から、とくに記述した。