江戸大伝馬町の名は江戸屈指の商業地として、ひろく鳴りひびいていた。
西鶴の『好色一代男』の一節にも、主人公の世之助が江戸大伝馬町の絹綿問屋に商売見習いに出立する話が描かれているが、大阪が商都として栄え、ここで商売の駆け引きがしのぎを削っているときに、江戸大伝馬町を商売修業の場として登場させているのは、江戸大伝馬町が木綿店を中心とする商売の町として、新しい性格をもってめきめき売り出していたからである。
新しい魅力をもった商売の町大伝馬町は、徳川家康が江戸を開いたとき以来の伝馬役が、江戸城拡張のときに移ってきた町であって、幕府公用の伝馬の役を南伝馬町とともに受けもっている特別の町であり、幕府の課役があると同時に種々の特権が与えられていた。
幕府の江戸の町経営には諸国から商人や職人を集めて、それぞれに町づくりをさせて定住を図り、繁栄させる政策がとられている。
大伝馬町も伝馬の役に命ぜられる一方で、商人の町として育成されてきた。
なかでも大伝馬町一丁目は伊勢商人を中心とする木綿問屋が軒を並べ、江戸切っての商売の町となり、「木綿町」と呼ばれるほど異彩を放っていた。
町は東西を貫く奥州街道をはさみ、町の長さは京間百六十間余あって、繁盛する店が立ち並んでいた。
江戸の行政は町奉行によって行われ、その支配下に町年寄がおり、町まちには町名主がいて、町奉行、町年寄、町名主の仕組みで幕府の法令や指示が町まちに伝えられてくる。
商人にとって頭の痛い幕府の御用金の仰せつけもこの手順で申し渡される。
大伝馬町一丁目辺を支配する町年寄は樽屋藤左衛門(時代によっては与左衛門)といい、江戸川柳や狂歌にもしばしば登場する人物だった。
町名主は佐久間善八と馬込勘解由で、ともに草創名主と呼ばれる名門であったが、佐久間善八は中途で郷里へ引退し役を辞しており、馬込勘解由は後のちまでも大伝馬町を取り仕切っていた。
東都大伝馬街繁栄之図 広重筆
江戸屈指の賑わいを見せる大伝馬町界隈を描いた作品。時期は天保から弘化時代である。
右側奥の、小津屋(紙問屋・繰綿問屋)、伊勢屋(木綿問屋)が小津清左衛門店である。
歌川広重(1797〜1858)
大伝馬町の賑わいと家並みの立派さは錦絵のよい題材になるほどのものだった。
紺ののれんには屋号と家印が染め抜かれ、三階建ての重厚な家構えで、二階には黒塗りの串窓が並んでいた。
江戸の華といわれる火事にもしばしば見舞われた町であるが、その都度、商人たちは巨財を投じて店を立派に立て直して復興し、江戸の他の町を圧していた。
幕府は防火建築をしきりに勧奨していた反面、建築が華美に流れるのを強く規制していたが、それにもかかわらず、大伝馬町には銅葺き屋根が許されている。
大伝馬町が大切な公用伝馬を受けもつ町だったからでもあるが、それにもまして商業の中心地で、経済的にも幕府への貢献が大きい町の実力を認めたからであろう。
店々の蔵に納められている商品も莫大な価値をもっていたので、特別の配慮がなされていたのである。
小津清左衛門はそこでしっかりと店を育てていくのである。
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