紙問屋の前は客の出入りと、店の前に積まれた荷と、大八車、街を往来する客で、商いの町らしい活気があふれていた。
紙の荷は仕入れの客がもち帰る荷と、送り届ける荷とがあって、店の者が忙しく働いている。
江戸大伝馬町一丁目の小津の店に届くまで、紙はどんな経路を通ってくるのであろうか。
紙はその多くが山間部の水のゆたかな土地でつくられる。
紙づくりは専業者の場合でもほとんど農家と同じで、その生産品の紙は農産物やその加工品と同じように、生産者から仲買人や産地問屋の直接買付けによって集められ、産地問屋から大都市の紙問屋へと出荷されていく。
三都---江戸、大阪、京の紙問屋が都市の問屋として勢力をもっていたが、三都の問屋の機能はそれぞれの土地の事情で若干のちがいをもっていた。
大阪の問屋は地場の消費をまかなうほかに、江戸へ送り出す機能をもっていて、美濃、越前から西の荷は大阪へ集められ、それから船便で江戸の問屋へ送り出される。
土佐の紙なども大阪へ送られ、大阪を経て江戸へ送り出されるのが通常の経路であった。
京都の問屋には地域的に近い越前や美濃の紙が集まり、地元需要に応ずる種々の紙が扱われていた。
京都へは武蔵や周防の紙も入っていたという。
紙の加工が織物とともに盛んで、王朝文化を濃く継承している土地柄にふさわしく、紙は優雅に加工された。
江戸の問屋への荷の入り方は、上方(かみがた)の二都とはまったく性格がちがっていた。
江戸には近い武蔵の紙や常陸の紙、伊豆の紙、離れた地であるが結びつきの濃い奥州の紙などは、地元の産地問屋から直接入ってきていたが、中部や西国の紙となると、すべて大阪の問屋から送られてくる荷であった。
紙が他の商品と趣がちがうことの一つに、藩の専売制があった。
産地の藩によって、その専売制の内容には相違があり、領国内の流通は自由だが、藩の外へ移出する場合だけ専売制のものや、紙の流通のすべてを藩の統制下においているところ等、さまざまではあったが、紙は藩の出先機関である蔵屋敷に送られ、そこから大阪の問屋へ売り渡される。
値決めは入札制による場合が多かったという。
大阪から江戸へ送られる荷は船便であった。
紀州灘や遠州灘の難所をもつ航路であったが、江戸が栄えて消費が増えるにつれて、大阪から江戸への下り荷は増え続け、海運はますます盛んになった。
元禄のころには一年に約千三百艘もの船が大阪からの荷を積んで江戸へ入ってきている。
その積荷の内容は圧倒的に米や酒が多く、享保十一年(一七二六)に江戸に入った米の量は八十六万俵余。
酒は七十九万樽だったという。酒はほとんど西からの下り荷であったろう。
その量の大きさに驚かされ、江戸の旺盛な消費意欲と、それを賄う西の生産力に驚かされる。
紙の入津量の記録が少ないのは残念だが、安政三年(一八五六)の年間入津量は九十八万四千七百七個であったという。
荷の動きが活発なとき、商売もやり甲斐が出て、うま味が生まれる。
活気ある江戸の消費意欲は紙商小津にも好影響をもたらしていたであろう。
大阪に入津する紙の量については正徳四年(一七一四)の記録がある。価格で一万四千四百六十四貫(銀建)であったという。
米の入津量(価格)の35%に当る。
元文元年(一七三六)の記録では六千八百六十五貫だったといい、この数字はそのときの米の入津量の80%に当る。
紙が活発に動いていたのが知られ、そのうちのどれだけが大阪の問屋から江戸へ廻送されたかは定かではないが、江戸の活況からみると相当の量が江戸へ向けられたと推定してよいであろう。
大阪からの荷は江戸湾から江戸の川をのぼり、舟入り(掘割)に運ばれる。
小津の店では大伝馬町のすぐ傍まできていた掘割の岸に蔵をもっていた。
前蔵であり、ここに一度納めて大八車で店の奥蔵へ運び込んだ。
小津では紙とともに繰綿を扱っていたから、荷が立て込むときは貸蔵も使ったであろう。
大阪から江戸への船便は菱垣廻船である。船便は当時、大量輸送できる最良の手段であるが、海難事故も頻発し、水による濡荷も発生した。
その海難処理のために十組問屋が生まれるのだが、紙問屋にとって海難処理は難儀な問題だった。
仕入荷(注文荷)は大阪の河口で船に積まれると同時に、荷は買主のものとなり、海難の損は荷主がかぶることになっていた。
紙の荷姿は、紙によってちがい、時代によってちがうが、越前奉書紙(明治時代)の場合は、四十八枚を一帖とし、十帖を一束とした。
荷姿は箱に入れて縦横から縄を掛けるのが慣習だった。奉書紙のような紙は高価な荷であった。