小津330年のあゆみ

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目次

第一章
001・創業
002・江戸大伝馬町
002a・清左衛門、店を広げる
003・紙、それは小津の宝
003・和紙の歴史
004・紙の流通
004・江戸と出版

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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紙、それは小津の宝
 紙、それは小津清左衛門が創業して以来、今日の小津に至るまで商いの中心をなしてきたものであって、紙こそ小津の「糧」であり、「宝」であった。 遠い日に大陸から伝来した紙づくりの技術が、日本の風土に根づき、そして優れた紙を生んだ歴史をふりかえると、日本人の英知とたゆまぬ努力にあらためて感動を覚える。

 天平文化をいまに伝えている正倉院御物には、当時の紙が絵や文書の形で数多くあり、千年を越えてもなお艶を失わず、優れた紙だけがもっている風合(ふうあい)のゆたかさと、高雅な趣をたたえている。 上代において、いちはやく紙の価値を認めて、紙の原料の楮の栽培をひろく奨励したのは聖徳太子であった。 紙商がいま聖徳太子を紙祖として仰ぎ、徳をたたえて感謝を捧げているのは、この事蹟によるものである。 天平文化の栄えとともに紙は一段と光彩を放って、政治と仏教弘布(ぐふ)に大きな役割を果たしながら、平安朝へと引き継がれ、王朝貴族の理解と愛護を受けて文化の華として咲いた。

 紙の主な用途は公の文書や写経の用紙で、それに王朝文学や消息文の料紙としても、優れた紙が珍重され、唐の紙や高麗の紙とともに国産の紙ももてはやされた。 それに女手のかな文字が盛んになるにつれ、流れるような線の美しさにふさわしい趣のある紙が求められ、平安文化と融け合って優雅繊細な趣を加えた紙が育った。

 源氏物語のなかには紙についての叙述がしばしば出ていて、王朝文化のなかに生きる貴族や女性たちが、深く紙を愛し、こまやかな心で紙を理解して味わっていた様子が描かれている。 清少納言も「清げなる」を紙の好みとしてきっぱりと記している。 いつの時代でも同じであるが、商品は理解されるところ、愛されるところに育つことを、紙の歴史も如実に語っている。

 紙づくりの適地は清らかな水に恵まれ、楮などの原料草木が育ちやすい場所で、そうした土地からは特色ある紙が生まれ、紙の需要が増えるにつれて、紙の産地は全国各地に広がっていった。 国々でつくられる紙はそれぞれに固有の名がつけられ、「みちのく紙は・・・・・」といった具合に珍重され、賞玩され、用いられた。 紙の産地のうちで都に近いところでつくられたのは、朝廷の図書寮のなかにおかれた紙屋院(しおくいん)で、国々から名工を呼んで優れた紙を漉かせている。 この紙は紙屋紙(かんやがみ)と呼ばれて、品質の高さを誇っていた。

 平安朝四百年の文化に育てられた紙は、時代時代の政治や経済のはざまで、きびしい環境にもまれながら、鎌倉時代の新しい文化へと引き継がれていく。 ここでは新しい仏教文化のなかで盛んになった開版事業(出版事業)の恩恵を受けて、新しい紙の需要を広げた。 時代は混乱から統一へと動き、桃山文化を経て江戸時代へと移っていった。

 小津清左衛門が江戸店を創業したころは、政治がしだいに安定し、徳川幕府の治下で新しい息吹が盛り上がっていくときで、やがて花の元禄文化に出会うのであった。

和紙の歴史
 優れた和紙があって、小津があった。そうした思いを込めて、和紙の歴史をさかのぼって、紙名やその材料を記していきたい。小津の店員たちはせっせと紙の名を覚えたものだった。

 正倉院御物のなかの紙には、麻紙、上野紙、紙屋紙、穀紙、縹紙の名があり、十数種の唐紙や色紙の名が記されている。 竹幕紙、斐紙、檀紙、梶紙、真弓紙、楡紙、葉藁紙、色紙の名もいろいろ記されている。 産地としては美作、越、出雲、播磨、美濃の国ぐにで、これらの国の紙が写経の料紙として用いられていた。 紙の名称から使われた原料がわかるが、麻、穀(楮)、斐(雁皮)なども主に、その他の草木や染料が使われていたことが知られ、もっとも多く漉かれたのは麻紙で、次が穀(楮)であった。

 紙の主な用途は写経用であったが、その他の用途としては文書や戸籍の用紙、窓張りや障子張り(襖やついたて)用などがあり、また平安中期(藤原時代)になると紙を上納した産地が四十三カ国に及んだことが知られている。 製紙の技法も進歩し、打曇紙、墨流紙が生まれ、和歌を記す料紙や襖紙、扇面などに愛用された。

 紙は風土と密着してつくられるものだけに、紙名には国の名や土地の名を冠したものが多い。 紙づくりには伝統が受け継がれていくので、古い紙名も時代を超えて長い生命をもち続け、また、新しい産地や新しい技法も生まれ、特徴ある紙を生みだしている。 室町時代(文安元年-一四四四)に出版された『下学集』に出ている紙名には、唐紙や檀紙とともに、引合、杉原、厚紙、薄様、打曇、色紙、鳥の子、懐紙、宿紙、修禅寺紙の名が見られる。 続いて、奉書紙の名も見られるようになる。 さらに桃山時代になると、泉貨紙(伊予)、七色紙(土佐成山)、桟留紙(下野)が知られている。 修禅寺紙は修善寺紙で伊豆でつくられ、江戸時代には公方紙と呼ばれて将軍家の料紙として用いられた。 七色紙も江戸時代になると御用紙と呼ばれて、土佐藩から将軍家に献上されている。

 江戸時代の中期に出版された『紙譜』(安永六年-一七七七刊)には、紙の産地は三十八カ国が記され、数十種類の紙名があげられている。 紙の用途も時代時代で移り変わりがあり、戦乱の続いた時代には紙づくりが衰微したときもあったが、政治や社会の混乱を超えてその灯は消えることはなかった。 紙の用途も上流から庶民へと広がり、実用に供される紙も豊富に出まわるようになっていった。

 長い伝統によってつくられる国産の紙は、明治になって洋紙が入ってくるようになってからは、洋紙と区別するために「和紙」と呼ぶようになり、なかでも手づくりの和紙は後に発達した機械漉和紙と区別して、「手漉和紙」と呼ばれるようになった。

 和紙づくりは原料を調整する仕事から始まり、手順を踏んで漉きあげていく。 その一つ一つに細かい心くばりを必要とし、紙づくりの工人たちの働きの結晶が、美しい手漉きの和紙となって商いにまわってくる。

 紙商小津が栄え、今日もなお商いに励んでいることができるのは、工人たちが心をこめて漉いた紙のお陰である。

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