優れた和紙があって、小津があった。そうした思いを込めて、和紙の歴史をさかのぼって、紙名やその材料を記していきたい。小津の店員たちはせっせと紙の名を覚えたものだった。
正倉院御物のなかの紙には、麻紙、上野紙、紙屋紙、穀紙、縹紙の名があり、十数種の唐紙や色紙の名が記されている。
竹幕紙、斐紙、檀紙、梶紙、真弓紙、楡紙、葉藁紙、色紙の名もいろいろ記されている。
産地としては美作、越、出雲、播磨、美濃の国ぐにで、これらの国の紙が写経の料紙として用いられていた。
紙の名称から使われた原料がわかるが、麻、穀(楮)、斐(雁皮)なども主に、その他の草木や染料が使われていたことが知られ、もっとも多く漉かれたのは麻紙で、次が穀(楮)であった。
紙の主な用途は写経用であったが、その他の用途としては文書や戸籍の用紙、窓張りや障子張り(襖やついたて)用などがあり、また平安中期(藤原時代)になると紙を上納した産地が四十三カ国に及んだことが知られている。
製紙の技法も進歩し、打曇紙、墨流紙が生まれ、和歌を記す料紙や襖紙、扇面などに愛用された。
紙は風土と密着してつくられるものだけに、紙名には国の名や土地の名を冠したものが多い。
紙づくりには伝統が受け継がれていくので、古い紙名も時代を超えて長い生命をもち続け、また、新しい産地や新しい技法も生まれ、特徴ある紙を生みだしている。
室町時代(文安元年-一四四四)に出版された『下学集』に出ている紙名には、唐紙や檀紙とともに、引合、杉原、厚紙、薄様、打曇、色紙、鳥の子、懐紙、宿紙、修禅寺紙の名が見られる。
続いて、奉書紙の名も見られるようになる。
さらに桃山時代になると、泉貨紙(伊予)、七色紙(土佐成山)、桟留紙(下野)が知られている。
修禅寺紙は修善寺紙で伊豆でつくられ、江戸時代には公方紙と呼ばれて将軍家の料紙として用いられた。
七色紙も江戸時代になると御用紙と呼ばれて、土佐藩から将軍家に献上されている。
江戸時代の中期に出版された『紙譜』(安永六年-一七七七刊)には、紙の産地は三十八カ国が記され、数十種類の紙名があげられている。
紙の用途も時代時代で移り変わりがあり、戦乱の続いた時代には紙づくりが衰微したときもあったが、政治や社会の混乱を超えてその灯は消えることはなかった。
紙の用途も上流から庶民へと広がり、実用に供される紙も豊富に出まわるようになっていった。
長い伝統によってつくられる国産の紙は、明治になって洋紙が入ってくるようになってからは、洋紙と区別するために「和紙」と呼ぶようになり、なかでも手づくりの和紙は後に発達した機械漉和紙と区別して、「手漉和紙」と呼ばれるようになった。
和紙づくりは原料を調整する仕事から始まり、手順を踏んで漉きあげていく。
その一つ一つに細かい心くばりを必要とし、紙づくりの工人たちの働きの結晶が、美しい手漉きの和紙となって商いにまわってくる。
紙商小津が栄え、今日もなお商いに励んでいることができるのは、工人たちが心をこめて漉いた紙のお陰である。