小津330年のあゆみ

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目次

第一章
001・創業
002・江戸大伝馬町
002a・清左衛門、店を広げる
003・紙、それは小津の宝
003・和紙の歴史
004・紙の流通
004・江戸と出版

第二章

第三章

第四章

第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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清左衛門、店を広げる
 大伝馬町の店持ちとなった清左衛門長弘の気組みは激しいものがあった。 念願の店持ちになったものの、店には二百両の借金を背負っている。 このためもあって懸命に働き、借金と利金を返済している。 このとき長弘を助けた店の人たちの名はとくに伝えられてはいないが、長弘の成功をみると、伊勢店にふさわしい手代や子供衆(こどもし)がいて、長弘を助けていたと思われる。 家城多兵衛という手代がいて助けたことは伝えられている。 長弘には佐久間善八の店の庭衆も肩入れしていたから、この人たちも新しい紙商として出発した長弘に貸してくれたことであろう。

 紙の需要は文化とともに伸びる。 長弘が創業した時期は江戸が充実し、繁栄が広がり続けているときであったから、時期としては好運の創業であった。 それに長弘の店は紙商が多く軒を並べている本町から大伝馬町の大横町界隈で目立つ場所にあったので、地の利もよかった。 創業のころの長弘は商売の多忙に加えて、創業一年後の承応三年に父長継が松阪で他界したため、この時期が長弘にとっていちばん大変だった。 しかし、その困難を乗り越えて店を盛りあげていった。 創業から二十四年経った延宝五年(一六七七)年に東隣の表口二間の薬種店を買い取って、表口五間の店に広げている。

 長弘の妻は武州川越の人で、宝永元年に七十一歳で他界しているから、長弘は創業してからあまり年月を経たずして江戸で結婚したのであろうか。 松阪商人の場合主人は松阪にいて江戸店を運用していくのがその商法であるから、長弘も店が固まった頃合をみて、松阪に居を移していた。 それに長弘は後継者として十三歳年下の弟孫大夫を養家先から戻して後を託している。

 孫大夫は隠居した長弘(玄久と名乗る)の跡を継いで長生と名乗り、積極的に商売を進めた。 玄久、長生の呼吸がよく合ったので、清左衛門の江戸店は繁盛を続けていた。

 紙商として創業した小津清左衛門の店がいつから繰綿を扱うようになったかは定かではないが、紙に加えて需要の多い繰綿を扱うことによって、清左衛門の店はますます繁盛し富を殖やしていった。 その端的なあらわれが江戸における店舗や屋敷の買い取りである。

沽券状
『永代売渡申家屋敷之事』沽券状 元禄十七年(一七〇四)三月二十九日(小津史料館展示)
大伝馬町佐久間屋敷十間を津の芝原三郎兵衛、相可の地主宗三郎、松阪の小津三四右衛門及び清左衛門等四人で金三千両で譲受。

沽券目録
『屋敷図』沽券目録 元禄十七年(一七〇四)三月二十九日(小津史料館展示)
表口十間は、勢州の木綿問屋の店舗六軒が並び譲受した店に押印があります。店賃、土蔵の地代金のための屋敷図です。
紙商小津は、このときから不動産賃貸業が始まります。

承応二年(1653) 表口三間、奥行二間 百三十両  (創業)

延宝五年(1677) 表口二間       十五両  (長弘五十三歳)

元禄十一年(1698)表口一丈五寸    百五十両  (玄久・長生の代−木綿店開業)

元禄十七年(1704)表口十間、奥行二十間 三千両  (玄久・長生の代−佐久間屋敷)

宝永三年(1706) 表口五間、奥行二十間 二千八百両(玄久・長生の代−佐久間屋敷)

 大伝馬町の町割りが行われたときの一区画は二十間四方であったから、奥行二十間というのは表通りから裏通りまでということになる。 佐久間善八は草創名主として拝領した広大な土地や屋敷を、引退に際して順次処分していたのであろう。 その金額の大きさに驚かされる。大伝馬町がいかに繁栄していたかを物語っている。

 佐久間善八といえば青年の日に長弘が奉公していた店であり、名門の町名主である。 長弘が創業するときにも理解を示し協力してくれた。 松阪の地にあって、玄久は大伝馬町の伸展をみるとき感慨無量なものがあったであろう。 このとき、清左衛門の店は創業して五十年の際月を重ねていた。

 長弘創業のいきさつや店買い入れを記録した清左衛門長康(長生の子)の書付けがある。 長康は祖父玄久の薫陶を受けた人で、丹念な人であった。

 江戸店開基之圖
一大傳馬壹甼目佐久間善八殿角店表口三間横町並之裏行ニ間店主井上仁左衞門云紙店承應二年八月九日 仕舞金百三十兩渡清左衞門長弘代請取則手形有之是まで家名齋藤氏名乘此家名云子細者京都 齋藤小兵衞云親類在江戸本石甼ニ呉服ノ出有之長弘若年頃者此所其家名カリ 齋藤云右出時本手金不足故小津三四右衞門殿ヨリ金貳百兩小津宗心老肝入以借用 其金子相済まで右店仕舞手形質物渡置年々利金ヲ遣其後金子相済手形請取右金子借用スルジ三四右衞門殿先祖縁有道休老親父まで 不如意而元來者法雲栄善玄久母之父堤仁左衞門之家頼之者也其頃小津屋清兵衛末家小津三四右衞門道休云店繁栄之家名故宗心老吉例祝而印ト名ニ家一小津 号小津屋ヲ名乘子細外之右ノ末家ニテハ之其後延寶五歳正月十一日大坂屋八右衞門云仁店東隣有之是金拾五兩渡二間口裏行三間店 仕舞取右兩方合ママ〆五間口本店是也右二通トモニ手形有之以上
一元祿十一歳寅三月太物出之先店主結城屋源兵衞店替〆跡太物店中間入鋪金高百五拾兩清左衛門長生浄久
一組合之家繪圖金高帳面別帋有之清左衛門長生代
一角家鋪五間口裏行貳十間代金高入用張面有繪圖トモ兩家一所什物箱有
右之書一巻後末爲レニ二シメン於分明書寫置者也
                              清左衛門長康 印 印
  正徳三癸巳
      初夏吉辰

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