紙商小津清左衛門の名は近世日本の豪商の生成を論ずる史書にしばしば登場し、殊に徳川中期の江戸店持ち伊勢商人の典型として商業史上つねに豪商に列して分析・紹介されているので、以前より承知していたし、現小津各社も、かねて関連の諸取引先からその手広く堅実な活躍を聞かされていたが、昭和五十年、思いがけず私も紙界の一員として日本紙業会社の経営に携わるに及んで、この名跡ある商社が、今度は私にとって身近な存在となり、日々親しくお付き合いをすることとなった。
そもそも紙商小津は、小津清左衛門長弘が承応ニ年江戸の目抜き大伝馬町に店を開かれたのが草創であるが、徳川時代の江戸の紙屋は、半数は伊勢出身者で占められていたと聞いている。
当時大消費地である江戸に諸国の産物を集めるには、その手段として菱垣(ひがき)廻船あるいは樽廻船等と呼ばれた和船による海上輸送が主に利用されたようであるが、江戸の大商人達はこれらの廻船業者に対して積荷の安全を図るため荷主組合なる各業種問屋の連合体を組織した。
いわゆる江戸十組(とくみ)問屋である。
この問屋仲間には四十七軒もの紙屋が名を連ねていたが、小津清左衛門はその一番組の筆頭格に挙げられ、各問屋の中でも最有力問屋として指導的地位にあったことを窺わせている。
明治維新以降は国内でも洋式機械の普及につれて大手洋紙問屋が台頭してくるが、小津は独り和紙の小津として独特の地歩を築き、全国に知られていたことは周知のとおりである。
もちろん日本紙業会社も、前身とする土佐紙会社、芸防抄紙会社が、ご承知のように和紙専抄の製紙会社であった関係から、小津とは製造販売それぞれ相互に双輪の関係をもって消長を分ってまいった次第で、この関係は合併後の日本紙業においても変わることなく、終始不可欠のパートナーとして継承され、その絆はますます強化されている。
太平洋戦争はわが国の国家構造をも根底から変革し、戦後国民生活様式の欧米化や急進する技術革新などによって紙の需要形態も大きく変化し、もともと稲藁文化に立脚して東洋的風俗習慣に定着していた和紙の需要も減退して洋紙・産業洋紙の時代となった。
小津各社はこの変革に英断をもって対処され、冷静明察のもとに経営方針の一大転換を図り、洋紙部門の拡充を進められた。
そして今日、小津グループとして伝統の和紙は申すに及ばず、洋紙・産業用紙・化成品・紙加工品等、紙の総合商社として著しく業容を拡大し隆昌を極められていることは萬々慶賀の至りである。
今年は創立三百三十年の記念の年であるという。
まことに驚嘆に値するもので、まさに本邦古来の生漉の和紙を地で行く商社である。
楮や雁皮、また蕘花(ぎょうか)・三椏、あの靭皮繊維からなる和紙特有の強靭さと、抜群の耐久性と、かつ目立ちはしないが精冽な川瀬に晒し叩かれて寒中の試練を堪えたあの優美さとは、けだし和紙しか持ち合わせていない。
温故知新、いうまでもなく修史の目的は来しかた栄枯をのみ編むものでなく、むしろ過去の帰結である現在から不測の未来に処すべき心を啓発すべきものとされている。
この紙界老舗の多彩な系譜は、即ち、力強く現代に生きつづける伊勢商魂のたくましき系譜でもあり、歴代の店主をはじめ、これを授けた先賢たちの経営世道を今に伝える紙界の一つの経典ともいうべきものであろう。
昨日までは、この燦然たる三百三十年の社史を編纂することのできる小津を祝福と羨望の眼で見ていたのであるが、はからずも後学の身に序文を記せとのことで、如上のとおり永年のご愛顧に対して感恩の意を表するまたとない機会と存じたので、思うことをそのまま記して序とさせていただく。