小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章
005・松阪の小津清左衛門
005・紀州藩と小津清左衛門
006・小津清左衛門、歴代
006a・掟書のこと
007・商人と御用金
008・小津清左衛門の信仰と施行
008・小津清左衛門の日常

第三章

第四章

第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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掟書のこと
掟書
『定』元禄七年(一六九四)六月(小津史料館展示)

 商家には掟書があった。小津の掟書の最古のものは創業者の清左衛門長弘が隠居後に定めた『定』七ヶ条で、「戊六月」と記されている。 長弘が隠居して玄久を名乗ってから八年目の元禄七年(一六九四)六月である。 弟の長生が当主として清左衛門家の采配をふるっている時期であり、江戸店も繁盛して店舗を拡張しているときであった。 世間は元禄文化を謳歌していた時代であったから、江戸で奉公勤めの苦労をし、創業店主としてさまざまな経験を重ねてきた玄久としては、ここで掟書を定め、店の風儀を引きしめておきたかったのであろう。 世間や商売の機微を知り奉公人の気持ちをよく知る玄久の『定』は、大を見据え、些事の重きを知っての七ヶ条といってよく、一言一句に経験の深さが凝集されている趣がある。 全文をそのまま次に記す。なお、当時の表記の習慣で文には濁点が用いられていない。 また、耳慣れない「なめんたら」の語が用いられているが、「なめんだら」のことで、乱雑の意味である。

       定
一御公儀様御法度者不申及諸事相背申間敷事
一人請口入堅致申間敷事並物なと仕候ハ能々念之入可申事
一相店へも用之なきに参間敷事
 殊夜あそひかたくきんセい之事
 若不叶用其先様行所急度斷可参事
一買出シ参候は調次第早々店へ可罷歸候事
一棚而人之見やうし遺仕間敷事
 殊はきもの諸事なめんたら致間敷事
一店火之用心ニかい下店火之用心能々可致事殊類火之用心四季共油斷有間敷事
一身之養生互付随分可仕事
右之趣急度相守可申者也
                  小津玄久
  戊六月目

 玄久の掟書は二代後の長康によって、正徳三年(一七一三)に補足されて『定』十二条がつくられた。 玄久・長生が世を去って長康の代となった宝永七年(一七一〇)から三年目のことであり、新進気鋭の長康が玄久の『定』を踏まえつつ、みずからの意志を加えて店員に示したものである。

 長康の掟書も第一条は玄久と同じく「御公儀様御法度之儀堅相守可被申候事」ときびしく戒めている。 店の者への戒めであると同時に、公儀に対しての深い配慮であった。 たとえ奉公人の行ったことでも店主が責任を負う仕組みの社会であリ、ときには町の世話人にも類を及びしかねない時代である。 きわめて切実な戒めであった。

 長康の掟書の第二条は火の用心である。江戸は火事が多発していたし、失火はもっとも重い罪の一つであった。 「台所並店々火用心無油断可被念入候事」と戒める。第三条は店員の心を諭したもので、玄久の『定』と趣を変えて物買衆(お客のこと)に「慮外無之様」とし、つねづね子供衆にも申し渡しておくようにとお客様大事を強調している。 長康は「大酒致間敷」と過度の飲酒を戒め、口論の戒めにも念を入れて「老分之者は元より子供に至る迄」と店員全員への戒めであることを強調して、「任我意候而過言一言之口論も無之様慎ミ」と自我自粛を求めているのは、男世帯の店の生活への配慮であり、店の和を願う店主の気持ちから出たものであろう。

 また、当時の風潮を憂えての項目と思われるのは、「狂言芝居見物之儀向後堅無用に候」で、江戸店の者が浮薄な都会風に染まることを案じる気持ちが強く出ている。

 若い長康には、高齢だった玄久や長生の耳に入らない江戸の風潮を知る機会が多かったのであろう。 長康自身も店の者と生活をとみにした時期があったとおもわれ、微細にわたって戒めている。 そして最後のしめくくりとして、店主の心情を述べて「目出度古郷に帰宅致事相待事に候」と記している。 それはまた子弟を江戸店奉公に出している郷里伊勢の親御さん達の心情をも代行するものであった。

 これには支配人に向けた『覚』が別にある。
「店支配人役常に和睦之心入を元として萬事念之入」に始まる『覚』は、鍵や印判を預かる責任の重さを述べ、日常の心得を説き、「物事志たらくに無之様に可被致候此儀向後相違有之間敷候」と結んでいる。 正徳三年(一七一三)発巳五月の長康の達しである。

 この掟書は長康の妻の貞円(法名、俗名は玉)がさらに補足修正を加え、『本店掟書』としてその後も本店運営の要(かなめ)として大切に受け継がれた。 貞円の掟書は左のとおりであって、長康の掟書を基本にして条項を増やし、こと細かに江戸店の人たちの自戒自愛を求め、「目出度古郷帰宅」するを望んでいる旨を記している。 情を述べるとともに毅然たるものを示している掟書である。

       定
一御公儀様御法渡(ママ)之儀堅相守可被申候事
一人請金請口入一切請合之事堅致申間敷事
一火之用心無油断可被念入候事
 附リ佛前燈明夜五ッ切鈔消可申事
一店ニ而人之見候様楊枝遣仕間敷事殊はきものなめんたら致間敷事
一物買衆中慮外無之様常々子供共下々も可被申渡候事
一博奕諸勝負堅禁制譬日待たりとも壹銭之勝負堅致間敷事
一身の養生互気を付随分可仕事
 附リ灸治四季共ニ無油断相互可致事
一五節句其外店休日ニ参詣所参候ハゝ店より両人宛可致出店之外他家之連中被致間敷候晝七ッ限りニ 歸宅可致候扨狂言事芝居見物之儀向後堅無用候本より遊山所参候者於有之は早速以蓮状可申越候若左様之儀了簡之加其通致置外寄相聞得申候は其時之支配人も同前之越度 罷成候間堅相守常々互吟味可在之候
一大酒間敷候酒は諸悪之本別主人を持今日身體をまかせ末々大切之出世相待者大酒を致越見たし不省前後見来所不孝不忠之人外と申者にて左様之者出来不致候様朝暮念越入友(ママ)吟味可被致候
一諸奉輩相互禮儀を正諸事不礼不儀仕間敷老分之者は元より子供等
まで任我意候過口越一言之口論も無之様愼前後之足不足を譲 諸事大切相務申様睦敷可致候
一参詣所参候儀常は不申及休日たり共夕飯過より参候義は堅無用候信心ニ而参候ハゝ早朝より参店罷出砌支配脇相断参詣致朝飯前ニ下向可被致尤他之蓮は堅可為無用事
一夜入無據儀有之仲間出候とも四ッ限りニ歸り可申若相談等在之候歸宅遲り候ハゝ迎可申事ならびに暮候無據用儀ニ而他出致候ハゝ挑(ママ)ニ而可参候
一諸用相行付寝候砌店人數相改表口錠をおろし鍵は支配脇所持可致事
一店手代衆之勤之儀諸事猥無之様可致候惣爰計より書中不申遣儀共寄合評判等有之様相聞得候近頃不埒存候以後左様之儀無之様愼可申候引竟ヶ様之儀申事皆々之ため相成不申儀 候若己後左様之私成義申者於有之は急度可申付候間堅相愼可被申候ならびに無用者臺所寄合諸事物語仕間鋪候譬店用事無之候晝夜相詰尤他所参候義堅無用
一支配人任我意不埒之取計致候節は其差次不存事は無之筈候間若左様之儀有之候ハゝ早速可被申越候萬一隱置候義於有之は同前之越度可申付事
一近歳臺所より裏門付晝夜出入致義候此儀も用事有之晝之内出入致候事も可有之候其儀ハ格別私用ニ而も臺所より裏道罷出候儀堅致間敷候尤暮六ッ過候ハゝ臺所裏口より他所出入堅爲致間鋪候
一諸藝稽古堅無用候其内手習之儀は格別近歳江戸表上達之藝事時行申様及承候手前店ニ而は左様之儀ハ無之筈候得爲念申遣候何事ニ而も店作法無之儀他家之風俗相學ひ被申間鋪候
一衣類之義先年寄申渡置候得とも近年猥相聞候自今(糸旨)絹紬之外はたとひ貰ものたりとも着用堅可爲無用事
一店勘定之砌有物貸借支配人指次まで不呑込之儀有之候ハゝ一應二應も示合決断不仕候ハゝ此方可被申越萬一等閑(なおざり)致置候ハゝ支配人不及申指次までも急度落度可申付候事
一在勤之者在々用事参候節自分商内一夜宿ニ而も参詣所見物等参申義先規より禁有之候得は左様之事無之候此義了簡違無之様急度相愼可被申候事
一店用事付出坂仕候者商賈躰之外商内別自分商内之義先規より禁有之候彌堅相守可申候近歳綿懸合商内有之他家抔ニ而ハ被致候様風聞有之候手前店ニ而は左様之不実商内堅無用事
一出坂之者主仁之要用罷出一夜宿ニ而も参詣所見物所他出仕候義堅無用事
右之條々堅相守可被申候尤先歳より作法之書付出置候得共己来此趣相守可被申候引竟店中大切存我等家訓之作法不省不残出世爲致度存別皆々目出度古ク歸宅致事越相待事候故如斯申遣候條自今毎月八日店中 讀爲聞相守可申候若此條相背申者有之候ハゝ其壹人と大勢之者とは替へす候まゝ萬一書面を輕しめ相守さる者在之候ハゝ店仲より早々可申達候爲後日如件
           貞圓
  寛暦十一歳(一七六一)
    辛巳九月
        店中

  注・貞円は小津清兵衛道生の娘(本居宣長の祖母の伯母)で、長康の没後、子の六代長郷、孫の七代長保を後見する。 仏門に帰依し、誠誉貞円大姉。宝暦十二年(一七六二)五月十七日没。享年七十一歳。

 明治十一年(一八七八)に制定された『更正規則』の大要もここに加えておきたい。

 明治維新を経て一変した社会情勢を踏まえながら改訂したのは明治十一年(一八七八)で、当時の当主清左衛門長篤によって、『更正規則』としてその年の一月に定められた。 それは第一条に「政府御布告ノ旨(ママ)趣堅遵守可致事」に始まる二十七条から成っている。 それを貫いているのは、商売を大切にし、けじめを重んじることが伊勢店の伝統であり、条文は長康が制定した掟書を踏襲しつつ、平明な表現が用いられ、いくつかの新しい事項も加えられている。 印鑑や帳簿の扱い、前金や内金の禁止、得意先の業態の注意観察の励行を強く求め、「商法ハ薄利タリトモ確実ナルヲ専一トス、必高利ヲ望シテ危嶮(ママ)ノ取扱不可致事」と、伊勢店の商法を説いている。

 第十五条から第二十四条は店員の生活規範の条項で、門限の遵守を求め、夜の時間の学習として算術、習字をすすめ、「修身学商法実用ヲ専一ニシテ戯作等ノ書ヲ読ムヘカラサル事」と戒めている。

 最後の第二十七条は「仕入方ハ一大商業ノ盛衰ニ関スル大役ナレハ日夜緒方ノ相場世上ノ景状ヲ注視シ売買ノ駆引応接其外万事商法ノ活機ヲ過タス注意勉強諸事重役ノ者ト協議ノ上取扱ヒ可致事」と、幅ひろい視野と細心の営業感覚を求めたものとなっている。

 激変する政治、社会環境のなかで、江戸店改め東京店をしっかりと守り、店員もまた社会の波に足をすくわれぬようにと願う本家の配慮が、これらの条文を形づくらせたのであろう。

商法の大本を説き、細部にわたって商人のあるべき姿を説いている条項には、行間の意も含めて、新しい時代「明治」に処する松阪商人の気組みがうかがえるのである。

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