小津清左衛門は代々、紀州藩徳川家の恩に深い感謝をあらわしている。
こうして家業がいそしむことができるのも、藩主の治政によるものとの感謝から、紀州藩や松阪奉行所には格別の奉仕をしていた。
ときには度たびにの御用金の沙汰に難渋したこともあったが、それにもかかわらず、小津清左衛門の紀州藩への忠誠は代々変わることなく厚いものがあった。
長弘から四代目に当る長郷の代になってからのことであるが、代々の奉仕の褒賞として大年寄格を命ぜられ、十五人扶持を授けられている。
玄久(長弘)と長生とが世を去った年から四十四年を経た宝暦四年(一七五四)のことであった。
大きな名誉であり、町の人びとからも格別に祝福されたのである。
紀州藩からはその後、維新に至るまで数々の栄誉が与えられた。
その主なものを抜き出してみよう。
・松阪御為替組に加えられ、元取を命ぜられる--宝暦五年(一七五五)
紀州藩の松阪御為替組がおかれると、他の七家とともに御為替組に加えられ、小津は殿村家とともに御為替組元取を命ぜられている。
富商のなかでも抜きんでた富商と認められるまでに、小津清左衛門は充実した商人となっていたのである。
このとき、当主の長郷は江戸三店の沽券(不動産の証書・沽券高九千四百五十両のもの)を御為替組御用の敷金として差し出している。
巨額の金銭を扱い重い責任をもつ御為替組だが、それにしても差し出した沽券の金額は大きいものであった。
御為替組御用は紀州藩の年貢米金の保管や上納、金繰りの御用を勤めるもので、年貢が金の場合は紀州藩から預かった金を藩の江戸屋敷へ送る業務を行った。
御為替組仲間が交替で月番になり、各店分担の業務をとりまとめ、元取の指図の下に御用を勤める。
元取はこのほか正米切手など藩の金繰りにも関与する重い仕事であった。
負担も重かったが、藩からは無利子の貸付金など便宜が与えられ、また、藩の信頼を意味する名誉ある任命でもあった。
・地士帯刀御免、四十人扶持を授けられる--寛政二年(一七九〇)
・年頭御目見の際の熨斗目着用を許され、仲間の上座を許される--寛政三年(一七九一)
仲間筆頭の格別の優遇が清左衛門に次つぎに与えられた。長保の代である。
・正米問屋元締を命ぜられる--寛政三年(一七九一)
藩の財政にかかわりの深い役目で、毎日正米問屋に出張して、藩の役人に代わって正米問屋を指図したという。
手代が主人に代わってその役目を行っていた。寛政八年には正米問屋を兼ねるように命ぜられている。
こうした繁瑣な仕事を小津清左衛門は維新の改変のときまで続けているが、清左衛門の代々に受け継がれていく篤実な店風が、紀州藩の信頼を得たからであろう。
小津もよくそれに応えた。
・五十人扶持を授けられる--文化四年(一八〇七)
松阪銀札(小津史料館展示)
・紀州藩、松阪銀札発行に際し、御為替組として発行元となる--文政五年(一八二二)
紀州藩は幕府の特別許可を受けて松阪銀札を発行することになり、その発行元には三井組と御為替組が指名され、銀札会所がおかれて、それぞれに極印を捺して銀札を発行した。
御為替組の銀札には長谷川、小津、殿村、長井、坂田の五家の名が捺されている。
・熨斗目着用を許され、地士独礼格を命ぜらる。--文政六年(一八二三)
長澄が家督を相続したとき、女戸主として小津家を背負ってきた慈源法尼(長保の妻の由賀。
後に喜賀とも名乗る。篤信の人)が、清左衛門の家を取り仕切り、店を繁盛させるとともに、藩の御用もよく勤めたので、その功に報いてとくに授けられたものであった。
・八十五人扶持を授けられる--文政十三年(一八三〇)
仲間内で例のない最高の扶持が授けられたのは、長澄の嗣いだ長堯のときであり、破格のことで周囲の目を見張らせる栄誉であった。
・魚町組大年寄を命ぜられる--安政五年(一八五八)
長柱の代。江戸時代も後期のことで、そのときの記録『御用留』が残されていて、大年寄の仕事の有様が詳しくわかる(大年寄留控=元小津家蔵、現松阪市史編さん室蔵・松阪市史巻十三に小津家文書として収録されている)。
それより抜粋すると、任命された日には、
二月廿五日晴
大年寄任命
小津清左衛門
魚町組大年寄兼勤申付之
二月廿五日
長井嘉左衛門
町廻り組大年寄兼勤申付之
二月廿五日
とある。大年寄というのは奉行-大年寄-町年寄という組織で市中の自治に当る役目であった。
小津文書は大年寄の御用留である関係で、奉行所からの触れや達しがその大半を占め、そのほかに町の出来事、祭礼や興行、縁組や離婚、火事、水害などの記事があり、大名やその家族、役人が松阪を通過するときの町の応待なども記されている。
小津清左衛門に与えられてた大年寄八十五人扶持の待遇はその後も変わることなく、維新まで続けられた。
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